史料

『井真成墓誌』<現代語訳>遣唐使時代の東アジアを分かりやすく解説!

たった数十文字の漢字が明らかにした、当時の日本と中国の関係は驚くべきものでした。いったいこの墓誌にどのような情報があり、史料価値があるのか解説します。

<画像:遣唐使船『福岡県九州国立博物館』>>

作品を知ろう!!!

井真成 奈良

奈良時代の東アジア情勢が読み取れる貴重な史料。唐で活躍した井真成の死を追悼したもの。

原文

[蓋]

贈尚衣

奉御井

府君墓

誌之銘

[身]

贈尚衣奉御井公墓誌文并序

公姓井字真成国号日本才称天縦故能

命遠邦馳騁上国蹈礼楽襲衣冠束帯

朝難与儔矣豈図強学不倦問道未終

遇移舟隟逢奔駟以開元二十二年正月

日乃終于官弟春秋三十六×××皇上

傷追祟有典×詔贈尚衣奉御葬令官

即以其年二月四日窆于万年県滻水

原礼也嗚呼素車暁引丹旐行哀嗟遠

兮頽暮日指窮郊兮悲夜台其辞曰×

乃天常哀茲遠方形既埋於異土魂庶

帰於故郷船中八策

現代語訳

[蓋]

尚衣奉御の井真成殿の墓誌の銘を贈る。

[身]

尚衣奉御を受けた井公の墓誌文と序文を贈る。

公は姓を井、字を真成と言い、日本の者である。その生まれつきの才能故に命じられ、遠くの国に□し、この唐王朝に馳せ参じたのである。もし彼が唐王朝の教養や文化を学んで衣冠を認められ、束帯を着用して朝廷に□したのならば、右に出る輩はいなかっただろう。

どうして亡くなったのだろうか。学問に努め、倦むことなく人としての正しい道について考えることを止めなかった。例えるならば、この前見た船に遭うこと、四頭で引く車が僅かな隙間を行くこと、と言えよう(前者は偶然の出来事、後者はめったにない出来事か。転じて、井真成の急死。)。開元二十二年正月□日官第(かんてい)で死す。享年36。

皇帝は悲しみ、彼を讃えて品々が与えられた。尚衣奉御の職位を贈り、葬儀は官吏の手によって執り行った。その年の二月四日に万年県の滻水□原に埋葬された。これは儀礼である。ああ、棺を乗せた車である素車は暁から反対の方へ引き、模様が描かれた丹旐の旗は悲しく揺れている。遠くに沈む暁を見て嘆き、その暁は郊外の粗末な場所にある墓を目指しているようで悲しく思う。

辞を贈る。「□は天の常であるとはいえ、遠くから来た人がまた遠くへ行ってしまうのは悲しいことである。その身は既に異国で埋葬されたが、魂は故郷である日本に帰ることを切に望む。」

井真成の経歴

名前について

井真成という名は、入唐の際に用いた名前だと考えられます。

遣隋使として派遣された小野妹子は蘇因高(そいんこう)と名乗っていました。漢字三文字で構成されていることに共通するため、「井真成」が日本名ではないことが考えられます

日本名について調べたのですが、未だ証拠となる資料が発見されておらず、不明のままだそうです。

漢字三文字 → 唐名の可能性が高い

生涯

井真成は文武3年(699年)に誕生し、17歳の養老元年(717年)に第九次遣唐使として派遣されており、この船には有名な吉備真備阿倍仲麻呂らも同行していました。

出発は難波津です。既に奈良時代から難波津が港として重要な拠点であったことが窺えます。瀬戸内海路のうち、現在の大阪、兵庫近海の港は「摂津五泊」と呼ばれており、難波津はその始点として機能していました。

とらちゃ
とらちゃ

陸路:都~博多 海路:博多~唐

ではないのは意外ですね。

長安には10月に到着しています。それから唐での職歴を経て、17年後の734年に亡くなりました。享年36でした。次に、井真成の唐での職位についてみていきます。

尚衣奉御

色々調べましたが、井真成の在唐中の職歴については分かりませんでした。 そのため、井真誠墓誌の本文中と論文、私の知識をもって、井真誠の人物像を考察しようと思います。

原文中にみられる尚衣奉御は、井真成の死後に与えられた官位で、贈官にあたります。言い換えれば、生前は尚衣奉御に相当した官位に井真誠が付いていたというわけです。

では尚衣奉御とはどのような職なのでしょうか。結論から言いますと、 「尚衣奉御とは、従五品上の職位であり、「尚衣」は、皇帝の衣服の管理を行っていた官職の名前、「奉位」は、「尚衣」に属する官員の名前」です。

唐王朝では、三省というのがあり、その一つに殿中省(でんちゅうしょう)という官職があります。その名の通り、殿の生活の内側、つまり皇帝の衣食住を管轄してた省になります。

上から殿中省→殿中監→殿中少監→殿中丞と続き、その下に尚衣、尚薬、尚食、尚舎、尚乗、尚輦の6つの職位が存在します。衣食住にまつわる単語がついており、『井真成墓誌』に記されている「尚衣」は名前の通り皇帝の衣服について管轄していた官職になります。

そしてこの「尚衣」の官員のことを「奉御」というのです。

皇帝の身の回りを管理していた省

殿中省

殿中監

殿中少監

殿中丞

尚衣・尚薬・尚食・尚舎・尚乗・尚輦

尚衣の官員のことを「奉御」という

従五品上の官位の者がこの職に就くことができたとされており、また、定員が二人であったということも『旧唐書』から明らかになっています[平田2023]。

中国の王朝は城も戦も規模の大きいため、省もかなりの規模と思われますが、意外にも数名~数十名で構成されていたことが分かります。

このことから、井真成が従五品上に相当する官位であったことが分かりました。

では、従五品とはどれくらいの職位であったのでしょうか。

丱野氏は五品までが「大夫」と呼ばれるのに対し、六品以降は「郎」と呼ばれることを踏まえ、

『この五品と六品とで、その地位にかなりの差のあることが、大夫と郎との階の名によって分かるが、平安朝でも、五位と六位では、かなりの差があった。』

と主張しました(日本の律令制について触れませんが、論文では、日本が唐王朝の律令制を輸入したため、その職権の差についても共通性があると論じています。)[丱野2012]。

また、王氏は、当時の「尚衣奉御」には皇帝の妹夫であった長孫昕が居座っていたことを踏まえ、

『このことから見れば、身分の低い下級官吏が唐の玄宗の在位期間に従五品上の「尚衣奉御」に昇進することは大変難しかった。[王2008]』

と述べており、五品と六品の間に非常に大きな昇進の壁があったことが分かります。このことから考えれば、井真成が六位以下であったことは考えにくく、また、定員2名ということも考慮すると、いくら死後に与えられた官職とはいえ、日本からの留学生にすぎない井真成が極めて優秀な人材であったと言えます。

墓誌の中に、「もし彼が唐王朝の教養や文化を学んで衣冠を認められ、束帯を着用して朝廷に□したのならば、右に出る輩はいなかっただろう。」という一文があることからもその優秀さは見事なものだったといえます。

次は、井真成昇進の要因について国際情勢から考察していきます。

当時の東アジア情勢と日本

「朝貢」と「冊封」

当時の日本は唐に対して「朝貢」していましたが、唐からは「冊封」を受けていません。

冊封とは、国家間の上下関係を明確に示した政治体制になります。

当時、8~9世紀の東アジアでは、渤海や新羅といった大陸国が対立し、その影響が伝播して両国とも唐と対立するといった緊張関係が存在していました。渤海、新羅は唐から両国とも冊封を受けています。

日本が冊封を受けていないということは、それだけ友好な関係、対等な関係を築けていたということの証拠でもあるといえます。また、日本のように唐から冊封を受けていない国が近隣になかったため、唐の中央政権における外国人登用競争が非常に有利であったとも考えられるでしょう。

日本だけ冊封を受けていなかったという当時の国際情勢が井真成の昇進の追い風になったかもしれません。

「日本」という国号

『井真成墓誌』には、冒頭に「国号日本」と表現されているため、井真誠が亡くなった734年時点ですでに、唐に「日本」国として認識されていたことが分かります。

では、これまで「倭」と呼ばれていた日本列島はいつから「日本」と国号を改めることになったのでしょうか。

実は、「日本」という表記が使われている最古の資料は日本では『大宝律令』(701年)だとされています(所説あり)。また、前に記した「尚衣奉御」などが記載されている『旧唐書』(618~907)にも「日本」という国号が見受けられます。

では、唐に国号「日本」の情報が伝わったのは701年~734年の間のいつなのでしょうか。井真成が同行した717年の第九回遣唐使でしょうか。

正解は、『大宝律令』発布直後の702年に派遣された第八回遣唐使になります。この遣唐使が「日本」を初めての対外使用した出来事になりました。言い換えれば、国号変更のために唐へ渡ったと言えます。

ちなみに、この時の遣唐使は粟田真人、山上憶良になります。当時どのような対外文書を送ったのか、全文が気になりますが、私の手では探し出すことができませんでした(発見したら追記します)。

以上のことから、8世紀初頭には既に日本と使われていたと頭にこびりついたのではないでしょうか。

まとめ

  • 墓誌の全文は井真成を追悼するもの
  • 既に「日本」という国号が使用されていた
  • 唐の律令制
  • 日本人の唐での地位と東アジア情勢

小さな資料、知識から、歴史は点と点を繋がります。

ぜひ、他のコラムも読んでみてください。文学、日本史の教養、学習に役に立つと嬉しいです。

文献

参考

王維坤2008「新発見「井真誠墓誌」の最新研究」『山形大学歴史・地理・人類学論集』第9号37-48頁山形大学歴史・地理・人類学研究会

丱野忠次平安朝の文学と唐王朝の服色甲南女子大学研究紀要文学・文化編1314頁甲南女子大学

平田陽一郎2023「唐・候莫陳毅墓誌」の訳注と考察沼津工業高等専門学校研究報告第57号48頁沼津工業高等専門学校

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