田中正造 明治
天皇に届かなかった直訴状。足尾銅山の開発に際して流出した鉱毒。その影響は渡良瀬川に留まらず関東全域にまで広がっていた。
作品情報
田中正造の活動
現在の栃木県佐野市小中町に生まれました。
晩年には「水ヲ清メヨ」というスローガンを掲げたことで有名な人物です。
足尾銅山鉱毒事件と戦った印象が強いですが、それは晩年の話で、治水問題に関する活動が多くみられます。明治時代はあらゆる技術に西洋式が取り入れられ、当然その中には日本の風土に合わないものも多く存在しました。その一例がダムです。ダムそのものを批判したのではなく、日本古来の方法に西洋式を付け足すかたちで周囲の環境を維持するよう呼び掛けていたのです。
また、文中では自然を擬人化することが多いです。道徳、倫理に結び付けるような表現により、読みやすいものが彼の著書の特徴です。
『直訴状』について
田中正造はかねてより足尾銅山の採掘被害について訴えてきましたが、その効果はなく、明治34年(1901年)に後に説明する谷中村に入村します。
同年の12月10日に直訴状を天皇に奏上するも、警察に阻まれ渡すことが出来ませんでした。
この直訴状は幸徳秋水が原案で、その後田中がいくつもの訂正を加え修正、加筆しました。そのため、田中正造が単独で作成したものではありません。
足尾銅山鉱毒事件の状況
明治29年(1896)の大洪水
谷中村のみならず、越県するほど被害は甚大なものでした。
『川を見ると石灰と泥を混ぜたような色をしており、一面泥海。また、魚や蛇が腹をさらして死んでいたといいます。加えて、洪水で浸かった手足は赤く腫れあがった[島田1972]』
といいます。
また、被害民の野口春蔵氏による調査では、東京、栃木、群馬、埼玉、茨城、千葉に毒水が浸入したという結果が出ており、当時の農相榎本武揚の自宅でも毒水が確認されています。
谷中村の被害、滅亡
谷中村は栃木県の南端部に位置し、群馬、埼玉、茨城の県境にあった村です。渡良瀬川が西南を流れる谷中村は作物が良くとれる良村でありましたが、毒水を防ぐために下流の千葉県関宿の江戸川口をせばめ、続いて利根川から渡良瀬川への逆流口を開いたことによってさらに洪水被害に見舞われました。
調査によって何とか田畑が持ちこたえていることが分かり住民は希望を抱いたが、県は堤防決壊部分の復旧を故意に怠ったり、修繕費を村に要求したりといった悪態をつき、鉱毒問題が洪水問題にすり替えられました。
その後県より強制立ち退きの命令が下されましたが、当然住民は反対します。しかし、有力者軟禁や杜撰な調書をもって住民を追い込み、明治40年(1907年)ついに谷中村は強制破壊、不当な価格で土地を買収、隣村に合併され滅亡しました。
読むだけでも行政に対して憤りを覚えます。
ついに実行に移した田中正造は何を訴えたのか、実際に読んでみましょう。
現代語訳
謹奏
公害問題に早くから取り組んでおります、微臣の田中正造、道理をわきまえない田舎者でありますが、あえて規律を破り法を犯し、天子の乗り物である鳳輦(ほうれん)に近づくその罪、万死に値します。
それに加え、このような行いをするのは、本当に国民のためなのです。一筋の光に希望を持ちつづけたがもう耐えることは出来ません。跪いて申し上げますことは、どうか陛下が仁義深く慈悲深く、愚かな臣下(=私)を憐れんで、少しでも良い、御就寝前にこれを読んでいただきたいと思っております。
東京から北方向に40里(約160㎞)、足尾銅山があります。その鉱山では近年、鉱業に用いる洋式の機械が発達するのに並行して流れ出る毒の量も増加しており、銅を採取する時に生じる毒水と毒屑が谷を埋め、渓流を流れ、ついには渡良瀬川に到達し、住民に被害を出しました。
また、近年山林を乱伐し工場を乱立した結果、工場から出る煙毒が水源に赤土が混じり河の様子が激変、洪水や異常な水位上昇が見られました。毒は四方に広がりをみせ、茨城、栃木、群馬、埼玉の四県で確認されています。
その面積数万町歩にまで達し、魚類は死に、田畑は荒廃し、それが原因で数十万人の国民がほどほどに持っていた財産を失いました。得られたはずの栄養、健康が得られないのです。職を失い、食べるものが無く病にかかるも、お金が無いので薬も買えない。老人や幼子は貧困が原因で道端で倒れ死に、働き盛りの者は県外に出ていってしてしまう。このような有様なので20年前肥沃であった土地は年を重ねて白髪が黄色みを帯びた老人のように、見ていられないほど痛々しい荒野となってしまっていました。毒にあたって死んでいく者は年々増加しており、私も例外ではありません。
私は以下のように思い量ります。
陛下の極めて優れたその資質をもって歴代の天皇の功績に続き、溢れんばかりの徳を天下に知らしめていただきたい。また、その権威をもって天下を一つの家にするべく才能や能力を発揮していただきたいと存じ上げます。
陛下は平和な世の中を謳歌しなければなりません。この毒の侵食は、天下のお膝元である皇居から極めて遠いわけではありません。窮状を訴えられない貧困に苦しむ数十万人の国民は虚しくも雨露の恩を望んで晴天を仰いで号泣しています。ああ、この現状をめでたいはずの御代の汚点と言わずして何と言おうか。この責任は実に政府の職務怠慢にあって、役人は上を見れば陛下の聡明な素質を覆い隠してしまい、下を見れば国民の生計のことなど考えていない。このようなことは決してあってはならないのに。
ああ、四県の土地は陛下の家ではない。
ああ、四県に住む国民は陛下のための人民ではない。
政府が陛下の土地と人とを掌握して、陛下をこのような不幸に陥れています。政府の役人にこの行いを顧みる者はおらず、私にはこの現状を黙って見過ごすなど不可能でありました。
私が思うに、この罪は政府に償い尽くさせるべきだとおもいます。そして、国民の心に希望の光を灯すような行動を起こす他ありません。
其一 渡良瀬川の水質を戻すこと
其二 川の修繕工事を行い、本来まで復旧させること
其三 大至急、毒を含んだ土を除去すること
其四 河川とその周辺から獲得できたはずの天然の魚や野菜を復活させること
其五 頽廃した多くの町村を回復させること
其六 事の原因である鉱山採掘を止め、毒物の流出を根絶すること
この六つを実行し、いずれ死に直面するであろう数十万の命を救う必要と、流出した人を呼び戻すことで人口減少を防ぐ必要があります。また、我が国の日本国憲法、法律をもって、鉱山周辺の環境への配慮、そこで生活する国民の権利を保護する必要もあります。
それだけではありません。将来の国家に必要な人や食料といった資源は鉱山採掘で失われるということを認識し、このような愚策は根絶する必要があるのです。もし対策もせずにこれからも毒を垂れ流すというのであれば、私はその被害がどれだけ拡大するか予測もできません。
私は齢61で、老いと共に病に臥せる日もそう遠くはありません。思うに、そう長くは生きることはできません。日本の将来に対し、功を立てて恩にむくいる絶好の機会であると考えており、我が身の利害は考慮していません。故に、陛下による天誅を覚悟の上で行動を起こしました。事態は急であり、鉱山被害に対してひたむきに思う感情は流れた涙で物言うことができないほどであります。
跪いて申し上げますことは、陛下の徳に優れた聡明さをもってこの問題を推察していただきたく存じます。現状打開には、心身を痛め大声で叫ぶように、私が強く主張するしか手段がありませんでした。
明治34年12月
文献
参考
島田宗三 1972『田中正造翁余録 上』三一書房