奥の細道【マップ付き!分かりやすい現代語訳#20】壺の碑
登場する場所
番号と対応した地図です。東北地方の名所は頻繁に立ち寄っていることが分かります。
20『壺の碑』では、
43 多賀城碑
が該当します。
原文
かの画図にまかせてたどり行ばおくの細道の山際に十符の菅有
今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り
壺碑 市川村多賀城に有
つぼの石ぶみは高サ六尺余横三尺計歟
苔を穿て文字幽也
四維国界之数里をしるす
此城神亀元年按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也
天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣獦修造而
十二月朔日
と有
聖武皇帝の御時に当れり
むかしよりよみ置る歌枕おほく語伝ふといへども
山崩川流て道あらたまり石は埋て土にかくれ木は老て若木にかはれば
時移り代変じて其跡たしかならぬ事のみを
爰に至りて疑なき千歳の記念今眼前に古人の心を閲す
行脚の一徳存命の悦び羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也
現代語訳
加右衛門が描いてくれた地図に従って道を辿り行くと、奥の細道に入るのだが、その山際に、十符の菅(とふのすげ。古来より都に献上された敷物。仙台の特産品)があった。
ここで登場しました。奥の細道。
奥の細道とは、仙台の岩切から多賀城の市川へ向かう冠川沿いの道のことを指します。
今でも毎年、十符の菅菰(すがごも。菅を細かく編んで作ったむしろ)を拵えて藩主に献上しているという。
藩主は伊達家です。
壺の碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有る
壺の碑は高さ六尺余り、横幅は三尺程度であろうか。
文字が苔に覆われて、幽かである。四方の国境までの里数(距離)が刻まれている。
此城神亀元年按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也
天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣獦修造而
十二月朔日
この多賀城は、神亀元年、按察使鎮守府将軍の大野朝臣東人が築いたものである。
天平宝字六年(762)、参議の東海道・東山道の節度使(軍事・行政を管轄する役職)並びに同将軍であった恵美朝臣獦(えみのあそんかつ。恵美押勝=藤原仲麻呂のこと)が修造した。
十二月一日のことである。
とある。多賀城の建設は、聖武天皇の御代に当たる。
昔から詠まれてきた歌枕(ここでは、歌の名所の意)は、今に多く語り伝えられているものの、不確かなものばかりになってしまっている。
山は崩れ、川は流れ、道は改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代わるので、時は移り、代が変じるからだ。
しかし、ここに至っては、今、紛うことない千年の記憶を眼前にして、古の人の心を見た。
これぞ行脚で得られる徳であり、生きる喜びであるのだ。
長旅の苦労を忘れて涙も落ちるばかりである。
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