111:塚と森と・地勢
山口、飯豊、附馬牛にある字荒川東禅寺と火渡、青笹にある字中沢と土淵村にある字土淵には、ともに「ダンノハナ」という地名があり。その近くにこれと相対して必ず「蓮台野(れんだいの)」という土地がある。
昔、六十を超えた老人をこの蓮台野へ連れていくのがこの土地の風習であった。とはいえ、自然と死なない老人も中にはおり、そのような者は日中は里へ下りて農作してかろうじて生活していた。そのため、今も山口土淵辺では老人が朝に野らに出てくることを「ハカダチ」といい、夕方に野らから帰ることを「ハカアガリ」というのだという。
112:蝦夷の跡
「ダンノハナ」は昔、館があった時代は囚人を斬っていた場所だったという。地形は山口や土淵、飯豊とほぼ同じで、岡の上は村境にあたる。仙台にも「ダンノハナ」という地名がある。山口のダンノハナは大洞へ行くのに越える必要がある丘の上の館址から続いている。
蓮台野はこれと山口の住居域を隔てて相対する。蓮台野の四方はすべて沢となっている。東側は低地で、南の方は星谷と呼ばれている。星谷には蝦夷(えぞ)屋敷という四隅に凹みがあるところが多くある。
そこは跡地として極めて明白で、石器が多く出土する。山口で石器や土器が出土している場所は二ヶ所あり、そのうちの一つの地名を「ホウリョウ」という。不思議なことに、ここの土器と蓮台野の土器とは様式が全く異なっている。連台野の土器は技巧が少しもなく、「ホウリョウ」の土器は模様など巧みに作られている。
また、「ホウリョウ」では埴輪、また石斧や石刀の類も出土する。蓮台野には蝦夷銭(えぞせん)といって、銭の形をした直径二寸ほどの物が多く出土している。これには単純な渦紋などの模様が付いている。また、「ホウリョウ」では、丸玉・管玉も出土する。「ホウリョウ」の石器は精巧で石質も一致しているが、蓮台野の場合、石質が統一されない。現在の「ホウリョウ」は何の跡ということもなく、ただ狭い一町歩ほどの広さの場所である。また、現在の星谷は田地となっている。
蝦夷屋敷はこの両側に連続して存在していたと言われている。囚人を斬っていたが故に、「掘ると祟りにあった」という場所がこの辺りに二ヶ所ほどある。
※他の村々の話でも、この二ヶ所の地形および関係は似ていた
※星谷という地名は諸国にあり、星を祭る場所である
※ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一帯で祀られている神である。蛇の神だという。その由来は知らない。
113:塚と森と
和野に「ジョウヅカ森」という所がある。象を埋めた地だという。ここだけには地震がないと言われ、近辺で被災した際はジョウヅカ森へ逃げよと昔から言い伝えられている。確かに、よく見るとこの場所は人を埋めた墓である。塚の周囲には堀があり、塚の上には石がある。これを掘ると祟られるという。
※「ジョウズカ」は「定塚」「庄塚」または「塩塚」などと書き、諸国に多く存在する。これも、土地の境界の神を祀っていた所を指す。「地獄のショウツカの奪衣婆(だつえば)」の話などと関係がある。このことについては、『石神問答』で詳しく記している。また「象坪」などの象頭神とも関係があるため、象に関する伝説に由来がないことは無いだろう。塚を森と表現することも東国の特徴である。
114:塚と森と
山口のダンノハナは、今は共同墓地である。岡の頂上にうつ木を植えて周囲をめぐらし、その入口は東方を向いており門口のような印象を受ける。その中ほどには大きな青石がある。かつてこの石の下を掘った者がいたらしいが、何も発見されなかった。後に再び掘ってみると大なる瓶があるのを見つけた。村の老人たちがきつく叱ったため、またもとの場所に置いたのだった。館の主の墓だとという。
ここから近い館の名はボンシャサの館といい、いくつかの山を掘り割いて水を引き、三重四重に堀をめぐらせている。また、寺屋敷・砥石森などいう地名もある。井の跡で、石垣が残っており、山口孫左衛門の祖先がここに住んでいたという。『遠野古事記』で詳しく記している。
115:昔々
御伽話のことを「昔々」という。「ヤマハハ」の話が最も多く存在する。「ヤマハハ」は山姥のことである。その1つ、2つを次に記そう。
116:昔々
昔々あるところにトトとガガとという夫婦がおり、娘が一人いた。娘を家に置いて町へ行ことになり、娘に
「誰が来ても戸を開けるな」
と言い、鍵を掛けて家を出た。娘は留守番が恐ろしかったので一人炉のあたりにすくんでいたところ、真昼間に戸を叩いて
「ここを開けろ」
と呼ぶ者がいた。加えて
「開けないのであれば蹴り破るぞ」
と脅してくるので、仕方なく戸を開けると入ってきたのは山妣(やまはは)であった。主人が座る席にあたる炉の横座に踏み込んで火にあたり、
「飯を炊いて食わせろ」
と言った。その言葉に従い娘は膳を支度して山妣に食わせた。その間に家から逃げ出しただが、山妣は飯を食い終えて娘を追いかけてき、徐々にその距離も近くなて今にも背に手が触れるくらいの距離になった時、山のかげで柴を刈っていた翁に逢った。
「私は山妣に追いかけられているところだ、隠してくれ。」
と頼み、刈り終えて山になっている柴の中に隠れたのだった。山妣がこちらへ尋ね来て、どこに隠れたのだ、と柴の束を除けようとした時、柴を抱えたまま山を滑り落ちていった。その隙にここを逃れて、今度は萱を刈る翁に逢った。
「私は山妣に追いかけられているところだ、隠してくれ。」
と頼み、刈り終えて山になっている萱の中に隠れたのだった。山妣がこちらへ尋ね来て、どこに隠れたのだ、と萱の束を除けようとした時、萱を抱えたまま山を滑り落ちていった。
その隙にここを逃れて、今度は大きな沼の岸に出たのだった。これより先行方法も無いので、沼の岸にあった大木の梢に昇って身を隠した。山妣は、どこへ行っても逃すものか、と、沼の水に娘の影が映っているのを見つけて、すぐに沼の中に飛び入った。この間に走り逃げ、逃げた先で一つの笹小屋を見つけた。中に入ると若い女がいた。
ここでも同じことを告げて、石の唐櫃(からうど)があったのでこの中へ隠してもらった。そこへ山妣がまた飛び来て娘の居場所を女に聞くが、女は
「知らない」
と答えた。しかし、
「いいや、来ていないはずはない、人間のにおいがするからね。」
と山妣は言うのだった。
「それは今雀を炙って食ったからだろう。」
と女が言い返すと、山妣も納得して
「それなら少し寝ることにしよう、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか。そうだな、石は冷たいから木のからうどの中にしよう。」
と言って、木の唐櫃の中に入りて寝てしまった。家の女はこの唐櫃に鍵をかけ、娘を石の唐櫃から連れ出し、そして
「私も山妣に連れて来られた者です。これを機に殺して里へ帰ろう」
と言った。赤くなるまで焼いた錐を木の唐櫃の中に差し通したのだが、山妣は外でこのようになっているとも知らず、ただ二十日鼠だけが通るだけであった。それから湯を煮立てて焼錐の穴から注ぎ込んで、ついにその山妣を殺し、二人ともにそれぞれの家に帰っていった。
「昔々」で始まる話の終りはいずれも「コレデドンドハレ」という語をもって結ぶのである。
117:昔々
昔々あるところにトトとガガ※と娘(おりこひめこ)がいた。トトとガガが、嫁に行く娘の支度のために、町へ買い物に行くことになった。戸を閉ざし、
「誰が来ても開けるなよ」
と言ったので、
「はア」
と答えた。しかし、昼にヤマハハが来て娘を食い、娘の皮を被って娘に変装したのだった。そうとも知らず、夕方に両親が帰ってきて、
「おりこひめこいるかー」
と門の口から呼ぶと、
「あ、いますいます、早かったな」
と答えた。両親は買って来た色々な支度の物を見せて娘の悦ぶ顔を見ていた。次の日の夜明け時、家の鶏が羽ばたきして、
「糠屋※の隅っこを見ろじゃ、けけろ」
と鳴いた。はて、いつもと様子が違う鶏の鳴き声のような気が、と両親は思ったが気にかけなかった。そして花嫁を送り出す時が来た。おりこひめこ(ヤマハハ)を馬に載せ、今にも行こうとした時、また鶏が鳴いた。その声は、
「おりこひめこでなくて、ヤマハハ乗せた、けけろ」
と言っていたようだった。繰り返し歌うものなので、両親はここで始めて気づき、ヤマハハを馬から引きずり下して殺したのだった。それから糠屋の隅を見に行くと、娘の骨が多くあったという。
118:昔々
紅皿欠皿(べにざらかけざら)の話も遠野郷にはある。ただし、欠皿の方は「ヌカボ」と呼ばれる。ヌカボは空穂(うつぼ)※のことである。この紅皿欠皿の話は、継母に憎まれていたが神の恵があって、ついに長者の妻になった、というものである。エピソードには色々な美しい絵様が付けられている。機会があれば詳しく記そう。
※空穂(うつぼ)太い筒形の中のがらんどうな所に矢を入れ、腰につけて持ち歩く道具
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