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梅松論(上)<全現代語訳①>1導入~4承久の乱後の天皇、執権、摂家将軍

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不詳 室町

鎌倉幕府成立~室町幕府成立までの出来事を記した。両統迭立や元弘の変、中先代の乱など、高校日本史で扱う出来事の多くが登場する。

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1 導入
2 大将軍の歴史と源三代将軍の滅亡
3 北条家と承久の乱
4 乱後の天皇、執権、摂家将軍
5 天皇位継承問題の歴史
6 持明院統と大覚寺統
7 両統迭立
8 元弘の乱
9 隠岐配流
10 護良親王と楠木正成の挙兵
11 隠岐脱出
12 船上山御座
13 後醍醐天皇の天運
14 足利尊氏、幕府を裏切る
15 六波羅探題滅亡
16 新田義貞、幕府を裏切る
17 鎌倉幕府滅亡
18 鎌倉と足利と楠木
19 建武の新政
20 護良親王騒動
21 中先代の乱
22 建武の乱勃発
23 手越河原の戦い
24 箱根・竹ノ下の戦い
25 新田義貞の富士川渡河
26 京都合戦

1:導入

いつの年の春であろうか。2月25日を参籠の結願の日と定めて、北野天満宮の毘沙門堂に庶民と僧侶の男女が集まり、ある者は経文と真言を読み、ある者は坐禅を組み、ある者は詩歌に興じていた。盛り上がった夜も更けたころに感じる、松の風、梅の匂い、どちらも非常に神秘的で心が澄み渡るようである。こうして過ごしていたので、しばらくの間休憩を取る事となった。その間にある者が言う。

「このような季節に申し上げるのは遠慮してしまうが、ご存知の方もいると思いまして、長い間不審に思っていたことを申し上げます。ご存知の方がいれば教えていただきたい。先代北条高時を滅ぼし、当代となった足利尊氏はその御運を開き、栄華を極めました。その事の次第を知りたいのです。どなたか語っていただけないか。」と申した。

やや静まり返ったところに、豊富な知識と多才さで有名な、何がしの法印と申す者が進み出て申し上げた。

「私は年老いた者ですが、長く生きた分、昔の事など知っております。知っているだけ語りましょう。年寄りゆえ、失念している事も多いかと思います。もし、失念箇所についてご存知の方がいれば、助言願いたい。」

問いを投げた本人はもとより、そこにいる全員が「これこそ神の御信託よ。」と喜び、法印の話に耳を傾けた。

法印は語る。足利尊氏が天下を取るまでの物語をー

2:大将軍の歴史と源三代将軍の滅亡

ここで「先代」というのは元弘年中(1331-1334)に滅亡した相模守、北条高時入道のことである。承久元年(1219)、三代将軍源実朝が公暁に暗殺され、源将軍家は断絶した。その後、故源頼朝卿の後室二位禅尼すなわち北条政子の計らいによって、公家から将軍家として藤原頼経を迎え、また、初代執権、北条遠江守時政の子孫も執権とすることを決め、両家が関東にて天下を治めることとなったのである。

「将軍」というものについて解説しよう。「将軍」とは、

第12代景行天皇の御代に起きた東国での乱を征伐するため、自身の息子、日本武尊を大将軍として派遣したことに始まる。日本武尊はこれを征伐した。

第14代(相違が見られる。)仲哀天皇の妻、神功皇后は自ら将軍として諏訪神、住吉神の二神を伴って海を渡り、新羅を屈服させた。三韓征伐である。

第31代(相違が見られる。)用明天皇の御代。厩戸王子こと聖徳太子は自ら大将として物部守屋を誅伐した。

第38代(相違が見られる。)天智天皇は大織冠という官位を賜った中臣鎌足を誅伐した。

第40代天武天皇は自ら大将として大友皇子を誅伐した。壬申の乱である。天武天皇はまたの名を浄見原天皇という。

第45代聖武天皇の御代。大野東人(おおのあずまびと)を大将として、右近衛少将大弐、藤原広嗣を誅伐した。藤原広嗣の乱である。大野東人は多賀城を築造した人物でもある。

第48代称徳天皇は女性である。中納言兼鎮守府将軍、坂上田村麻呂の父である坂上苅田麻呂を大将として、淡路廃帝こと第47代淳仁天皇、並びにその仲間の藤原仲麻呂を誅伐した。藤原仲麻呂の乱である。藤原仲麻呂はまたの名を恵美押勝と言う。

第50代桓武天皇の御代。中納言兼鎮守府将軍、坂上田村麻呂を派遣して、蝦夷の阿弖流為ら賊徒を倒し、奥州を平定した。

第52代嵯峨天皇は、鎮守府将軍坂上綿丸を派遣して、右兵衛督、藤原仲成を誅伐した。平城太上天皇(薬子)の変(810)である。

第61代朱雀院の御代。平貞盛と藤原秀郷を将軍として、平将門を誅伐した。平将門の乱(935-940)である。

第70代後冷泉天皇の御代。永承年中に陸奥守源頼義を派遣して、安倍貞任(あべのさだとう)らを鎮圧した。前九年の役(1051-1062)である。

第72代白河院の御代。永保年中(1081-1084)に陸奥守兼鎮守府将軍源義家を派遣し、清原武衡、清原家衡を誅伐した。後三年合戦である。

第73代堀河天皇の御代。康和年中に因幡守平正盛を派遣して、対馬守源義親を討つ。源義親の乱(1102-1103)である。

第77代後白河院在位の始めの頃。保元元年(1156)に兄である第75代崇徳院と権力争いをした時のこと。下野守源義朝ならびに安芸守平清盛を派遣して、六条判官源為義、右馬助平忠正を誅伐した。保元の乱(1156)である。

第78代二条院の御代。平治元年(1159)に藤原信頼、源義朝らが二条天皇と後白河院を大内裏に幽閉した。清盛はただ一人ですぐに乱を平定し、結果、天下は穏やかに治まったのだった。これは平治の乱と呼ばれる。この武功を誇り実権を握った平清盛は政権を欲しいままにしていた。朝廷との不和が生じ、悪逆非道の道を開きはじめたころ、後白河法皇が密かに平氏追討の宣旨を下したのだった(第三皇子の以仁王が平氏追討の宣旨を下したことを指すか)。

追討宣旨を承った源頼朝は義兵を発して壇ノ浦にて平家一族らを誅伐した。この功績に時の天皇、第82代後鳥羽天皇は感動し、頼朝を、日本全域の惣追捕使あわせて征夷大将軍の職に任じたのだった。またその後、正二位大納言兼右近衛大将に昇進されたが、わずかひと月で両官を辞した。活躍は治承4年(1180)の平家追討に始まり正治元年(1199)1月11日に至るまで。この日大将軍は病によって出家したのである。その2日後の1月13日逝去。享年53であった。

約20年間、民の憂いがないほどに天下は治まっていた。頼朝の嫡子、源左衛門督頼家が頼朝の跡を継いぎ、建仁2年(1202)までの約3年間関東の将軍としてその座に君臨した。しかし悪事が多かったため、外祖父である北条時政との争いによって敗北、伊豆国修善寺に幽閉されたのだった。比企能員と共に北条家排斥を企てた比企能員の変である。

次に将軍となったのは源頼家卿の実の弟、実朝公である。建仁3年(1203)より建保7年(1219)までその座に君臨した。建保7年は承久に改元した年である。17年間将軍としてあり続け、その間に昇進を重ねて右大臣と右大将を兼任した。1219年1月27日20時頃、鶴岡八幡宮に参詣された時、鶴岡八幡宮の長官でもあった頼家卿のご子息、公暁が実朝公を討った。しかし、逃げ込み先であった三浦義村が、実朝公を殺害すことができたが北条義時の殺害はしくじっている、ことを知り、口封じのために即座に追手を遣わして公暁を誅伐した。

このために源三代将軍は断絶し、人々が嘆き悲しむこと申し上げ尽くせない。100人以上が出家したのだった。

3:北条家と承久の乱

その後関東には将軍の座が空位であった。これはどうしたらよいものか、ということで、二位の禅尼こと北条政子の計らいで、同年、承久元年(1219)2月29日、時の摂政九条道家の三男、頼経が2歳にして関東に下向となり、摂家将軍として将軍の座に就いたのだった。母は太政大臣西園寺公経の女(一条全子)である。嘉禄2年(1226)12月29日、九条頼経(藤原頼経)元服。武蔵守北条泰時が加冠した。

相模守北条時房(2代目執権北条義時の兄弟)は、北条泰時が制定した連署にて初代連署として政務を執り行っていたところ、承久3年(1221)の夏、後鳥羽院が時を見計らい、関東将軍を滅ぼさんがために、三浦胤義、佐々木高重、兄弟の佐々木経高らに命じて後鳥羽院の招集に応じなかった伊賀光季を京都で誅伐し、すなわち官軍として関東へ軍を発した。

5月19日にその報せを聞いた関東では、北条政子が実の弟、右京の亮(北条義時)や諸将を招集して言った。

「なまじ生き残ったせいで、三代将軍の墓を西国の輩に踏み込まれるのを見ることになるとは、甚だ遺憾です。これ以上命長引いても仕方ありません。最初にこの北条政子を害してから後鳥羽院のもとへ参りなさい。」と。泣く泣く語ったのであった。

侍どもは、「我らは右幕下(源頼朝)の重なる恩義を受けておきながら、どうして三代将軍の生き様を無念に思いましょうか。西国に枕を並べましょうぞ。東国の地は踏ませんぞ。」と各々申した。

5月21日、死ぬか生きるか運命の日となった。3代執権北条泰時とその叔父北条時房をの2名を大将として鎌倉から出兵した。

泰時は父義時に言う。

「国は王の支配する土地です。であるので、勅命に背いた者は今も昔もその身は安全ではありませんでした(「国は天皇が支配することが道理なのに平清盛が政権を我がものとした結果、追討宣旨の対象となった平氏は滅亡した」という後の文に続く導入文)。その元凶となった平相国禅門(平清盛)は後白河院の悩みの種となっていました。このため故将軍頼朝卿は後白河院(厳密には、子の以仁王)から密かに勅命を承り平家一族を誅伐し、その忠功に見合った褒賞の限りを尽くしました。褒賞を承った者共の中でもとりわけ祖父時政は承ること随一でした。それなのに今、子孫である我々が勅勘を受けようとは、嘆いても嘆き足りません。これも天命でしょう。天命というものは逃れることがむずかしいことですので、やはり合戦を止め、後鳥羽院に降参すべきです。」との旨の事を父義時に頻りに諫めていた。

義時はしばらくして言った。

「これは感心なことを言う。ただし、それは君主の政治が正しい時の話だ。近年の後鳥羽院の政治活動を見るに、古の政治を尊重するだけで、実体が伴っていない(長期間にわたり院政を行ったことは事実だが、実権は関東将軍にあったため、建武の新政と混同しているのではないかと思われる。『朝に勅裁有て夕に改り』は建武の新政の揶揄として有名であることからも言える。)。また、朝に出された勅命は夕には改まる有様。一つの職に何人もの輩を長として補任するため、国内で穏やかな場所など無かった。この影響が及んでいない所は恐らく三代将軍による計らいであろう。治乱というものは、相反する水と火の戦いのように表裏一体なのだ。つまり、この度平穏と戦乱の戦いに及ぶわけだが、天下を穏やかに治めるため、天命に従って合戦するべきなのだ。もし我々が勝利すれば、逆臣として重く罰する。また、後鳥羽院を相手としているとはいえ天皇家であることには変わりない。勝利したあかつきには、後鳥羽院のご子孫を天皇として奉るべし。後鳥羽院がお見えになることがあれば、甲冑を脱ぎ、弓を外し、頭を垂れて参上しなさい。一戦を交えるとはいえ、これは天皇に対する道理ある行為である。」

そして北条泰時をはじめとして、東国武士を奮い立たせ、3つの街道から同時に攻め上った。東海道の大将軍は武蔵守泰時と相模守時房。東山道は武田信光、小笠原長清。北陸道は北条義時の次男、式部丞朝時(ともとき)。総勢19万が同時に都に乱入、都の軍勢はたちまち敗れ、逆臣は残らず討取ったのだった。

戦後処理として、後鳥羽院は隠岐国へ配流となった。そして、義時の言った通り、貞応元年(1222)に第82代後鳥羽院の異母兄弟の子である後堀河天皇を第86代天皇として即位させたのであった。なお、第83代土御門院は幡多(はた)へ、第84代順徳院は佐渡へ配流。第85代仲恭天皇は廃位となった。第86代後堀河天皇の御代は貞応元年より貞永元年(1222-1232)の11年間である。

4:乱後の天皇、執権、摂家将軍

承久の乱後の天皇(87代~96代)

次に第87代四條院。後堀河院のご子息である。御代は天福元年より仁治3年(1233-1242)の10年間である。

次に第88代後嵯峨天皇。土御門院のご子息である。御代は寛元元年より同4年(1243-1247)の5年間である。

次に第89代後深草院。後嵯峨天皇のご子息である。御代は宝治元年より正元元年(1247-1259)の13年間である。次に第90代亀山院。後深草院の異母兄弟である。

なお、この兄弟以降、第96代後醍醐院までを「両統迭立時代」という。

後深草系を「持明院統」、亀山系を「大覚寺統」という。御代は文應元年から文永11年(1260-1274)の15年間である。

次に第91代後宇多院。亀山院のご子息である(=大覚寺統)。御代は建治元年から弘安十年(1275-1287)の13年間である。

次は第92代伏見院。後深草院のご子息である(=持明院統)。御代は正應元年から永仁六年(1288-1298)の11年間である。

次は第93代後伏見院。伏見院のご子息である(=持明院統)。御代は正安元年から同3年(1299-1302)の4年間である。

次は第94代後二条院。後宇多院のご子息である(=大覚寺統)。御代は乾元元年から徳治2年(1302-1307)の6年間である。

次は第95代花園院。後伏見院の異母兄弟である(=持明院統)。御代は延慶元年より文保二年(1308-1318)の11年間である。

次に第96代後醍醐院である。後二条院の異母兄弟である(=大覚寺統)。御代は元應元年より元弘元年(1319-1331)の13年間である(次に光厳天皇が即位(1332)するが、「建武の新政」により実質的には暦応2年(1339)に没するまで実権を握っていた。)。

次に光厳天皇、その次に光明天皇が即位した。両天皇、後伏見院のご子息である(=持明院統)。しかし、後醍醐院の大覚寺統が正当系統とみなされたため、正式な天皇では無い。南北朝動乱の幕開けである。

関東将軍家

さて、神武天皇から後嵯峨院に至るまで約90代である。平家追討に始まる治承4年(1180)から南北朝動乱の幕開けとなる元弘3年(1333)に至るまでに154年間。関東将軍家と執権の次第を記す。

まずは関東将軍家。源頼朝、頼家、実朝の以上3代は武家である。その次、頼経、頼嗣の以上2代は摂政家である。その次、宗尊、惟康、久明、宗邦の以上4代は親王である。いわゆる皇族将軍である。関東将軍家と執権は計9代である。

執権

次に執権の次第を記す。北条遠江守時政、義時、泰時、時氏(時頼の誤りか。)、経時、時頼、時宗、貞時、高時。以上9代である。

皆、武蔵相模両国の長官として、将軍家の後見として政務を行い天下を治めた。一族の中から気量のある人材を選び、将軍が仰せの下文、下知等をこなしてきた。正月三が日においては、宴会の場、弓場始(ゆみばはじめ)、遅刻、貢馬(くめ)が行われ、儀式の警護にあたった随兵以下諸役所の者や諸侍を同等の身分の者として扱った。そして、昇進した北条家の嫡流は『徳崇(得宗)』と呼ばれることとなった。彼らは慣習として官位を従四品下に留め、過ぎた振る舞いをしないようにした。

政治に専念し、神仏を敬う。民を慈しみながら善政を敷く。草木が吹く風に身を任せるように、民は北条家に従った。結果、乱れた天下は治まり、代々めでたい世が続いたのである。最後の得宗、第14代北条高時の執権は、正和五年より正中二年(1314-1325)までの10年である。

 

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