不詳 室町
鎌倉幕府成立~室町幕府成立までの出来事を記した。両統迭立や元弘の変、中先代の乱など、高校日本史で扱う出来事の多くが登場する。
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15:六波羅探題滅亡
所は変わって金剛山千早城。このころ、昨年の春より楠木正成が籠っていた金剛山千早城をめぐる戦いで関東側の多くが成果を出せず、利を失っていた。その所に、将軍尊氏が後醍醐院の要請に応じて、近いうち洛中に攻め入るとの報せが楠木正成のもとに届いた。人々が驚くこと普通ではなかった。このような状況であっても関東側に忠義を示す在京人と四国などの西国の勢力。不利な状況でやや思い切ったことをするその判断、その忠義心誠に感慨深い。後醍醐院側は三手に分かれて六波羅探題を攻めた。尊氏の先陣は内裏南東の神祇官の前で東向きに控え、六波羅勢は白河を上り二条大宮を隔てて西向きに控えた(現在の二条城内敷地内西側あたりで対峙)。
午前8時頃、両軍進軍し鏑矢の音が響き渡る。開戦の合図である。鬨の声も遠くまで聞こえるほどであった。入り乱れて今日が最後の命と覚悟を決めて両軍戦う。馬の足音。矢の空を斬る音。天にまで響き地を揺るがすほどの激戦となった。入れ替わり立ち替わり進退が何度も繰り返され、命を落とした者は数しれず。中でも、将軍の御内人の五郎左衛門尉が敵陣に真っ先に駆けて討死したのは印象深い。関東将軍への忠節を示した行動として感慨深いものである。
午後2時頃、尊氏側軍はこの戦に勝利し、六波羅勢は撤退した。また、二手目の千種忠顕の軍は伏見竹田より攻め入った。三手目の赤松則村の軍は東寺より攻め入り、九条あたりにおいて戦闘が数箇所で繰り広げられた。後醍醐院側の寄せ手が洛中へ乱れ入ったので六波羅勢は堪えきれず六波羅探題に撤退し籠城した。お家を思い武功を立てたい勇者どもは六波羅探題から打って出て戦う、といったことを繰り返すこと7日に及んだ。
「「我々(後醍醐院側)は大勢でゆえ、すぐに六波羅探題を包囲し、悉く討ち取るべきだ」」とあらゆる人が言うところに、細川和氏が申す。
「そのようなことをすれば、敵は覚悟を決めて戦い、我々に被害が多く及びかねない。あえて退路を用意しておけば降参する者も多く、自然と敗軍となるだろう。後の始末は楽である。」
そうしてあえて退路を用意した。そうしているうちに心替わりした多くの者が後醍醐院についたのだった。六波羅北方の第13代執権北条基時の子、越後守北条仲時と、六波羅探題南方の仲時の家臣北条時益(ときます)とがこの状況を見て言う。
「我らが命を散らし、屍を京の都に晒すことはもっとも本意である。しかしこれは私の考える義である。今現在この六波羅探題は皇居であり、我々がここで討死や自害するようなことは、おわします光厳天皇、後伏見院、花園院のためにも避けなければならない。洛外に脱出させてから、関東の援軍を待とう。あるいは、楠木正成のいる金剛山を包囲する者らと共謀して合戦をしよう。再び後醍醐院勢力が洛中に攻め入るまでに時間は無い。」
これを天皇方に奏上したところ、武家の判断に任せよう。との勅答を賜ったため、7日の夜中に脱出を敢行、苦集滅路(くずめじ)を経て東に向かい、琵琶湖畔の勢多橋も渡った頃に夜は明けた。供奉した大臣や殿上人は、慣れない山道の深い夏草を分け行って足を進める。涙と草露に袖はたいそう濡れてしまった。そして勢多橋の先にある守山あたりから野武士どもが山野を駆けて敗軍を追撃してきたため、これの手によって討ち取られたり傷を負ったりした者も多かった。その夜は近江国観音寺を一夜の皇居とした。
翌日5月9日、東を目指して落ち行く最中、中山道番場宿のある山において、先帝後醍醐院側と称して近江、美濃、伊賀、伊勢の悪党が揃って錦の御旗を掲げ、盾を並べて東海道を封鎖した。一昨日7日には洛中で合戦をし、昨日8日には野武士に追われ、それでも生き延びた輩、そして馬は疲れ果てて先に進めなかった。武功を惜しむ輩はなおも戦うが、
「もはや逃れる場所がない。恐れ多いながら院を害して後、我々は討死でも自害でもしようぞ。」と弱音を申し上げた。大将北条仲時は言う。
「我らが生き延びて、天皇方が敵に奪われるのが最悪の事態であり、恥である。命を捨てて後は残されたものに託す。」
そして午後6時頃、北条仲時は自害した。これに従った輩数百人も命を落とした。六波羅南方の北条時益はというと、一昨日7日夜、四宮河原にて流矢に中りこの世を去った。武士頭がこの首を回収し、六波羅北方北条仲時のもとに持参した。仲時はこれを見て自害したのである。同じく腹を切った者の名字を番場宿の道場に記したのは世の知ることである。
16:新田義貞、幕府を裏切る
仲時軍が破れたことにより、後伏見院、花園院の耳には、先帝後醍醐院が既に入洛との報せが入っていた。このことは金剛山にも伝わっていた。楠木正成の籠る千早城を包囲していた大勢の兵が奈良へ引き返す事態となり、正成軍が困惑しているところに、京都で六波羅探題を攻略した後醍醐院からの勅命が正成のもとに届いた。『関東を誅伐すべし』と。それだけでなく、同時に御教書を諸兵に報知するほど動きが早かった。これによって楠木正成の討ち手であった大将阿会弾正少弼こと北条治時、陸奥右馬之助こと大佛(おさらぎ)高直、長崎四郎左衛門尉こと長崎高貞は奈良にて出家、降参して即謹慎となった。なお、長崎高貞は北条高時の治世に実権を握った長崎高資の弟である。
そうしているうちに、時の関東将軍北条高時は後醍醐院に治世を譲るような内容が関東中に伝え広がった。聞く人皆顔色を失うこと普通ではなかった。5月中旬には新田義貞が関東を裏切り後醍醐院の味方として上野国世良田(現:群馬県太田市)に陣を敷いた。新田義貞は清和源氏の系統、後三年の役(1083)を平定した源義家の孫源義重、義康兄弟の子孫である。密かに勅命を承り、新田一族皆が立ち上がった。後に明徳の乱(1392)を引き起こした山名氏清や応仁の乱で西軍大将を務めた山名宗全で知られる山名氏。里見義胤。堀口貞満。大舘宗氏。岩松経家。桃井尚義(もものいなおよし)。皆大層な実力者ではないという事は言うまでもない。これを受けて幕府側の上野国守長崎孫四郎左衛門尉こと長崎泰光が即座に挙兵、5月11日に遭遇戦というかたちで合戦は30回に及んだ。小手指腹の戦いである。上野国の輩は残らず新田義貞についたため長崎泰光は戦況を支えることが出来ず撤退した。新田義貞は多くの軍勢を率いて武蔵国に侵攻した。武蔵国の輩も新田軍に従った。
翌12日、新田軍は久米川に布陣する幕府軍と合戦に及んだ。久米川の戦いである。 5月14日、幕府側は北条高時の異母弟、左近大夫将監入道恵性こと北条泰家を大将として武蔵国に進軍させた。同日山口の庄の山野に陣を敷き、翌15、16日に分倍河原の戦いで辛くも勝利、同日に多摩川を超えて関戸の戦いを繰り広げ、終日戦い続けたのであった。命を落とした者、傷を負った者、数えることができないほどの激戦であった。北条泰家の宗徒の者、安保道潭、粟田氏、横溝八郎(高貞)らは前線で討死した。幕府軍は悉く撤退するも、新田の大軍が鎌倉に攻め上ってくる。敵がすぐにでも攻め込んでくるぞ、と鎌倉中が騒ぎになった。そうしているうちに鎌倉へ新田軍が到達、軍を三手に分け、巨福呂坂(こぶくろざか)、化粧坂(けわいざか)、極楽寺坂の三道から攻め入った。
17:鎌倉幕府滅亡
鎌倉街道の下道を北上する下総より千葉貞胤。幕府軍大将であり、貞胤の従弟でもある北条貞将(さだゆき)と鶴見川付近で激突し、これを破った。武蔵国に繋がる巨福呂坂を守るは第16代執権北条(赤橋)守時。攻めるは堀口貞満。1日に60回を超える攻防の末、守時は圧され洲崎千代塚まで撤退。
「妹の赤橋登子が足利尊氏の妻である。幕府から内通を疑われているが、潔白を証明するためその義を示す。」
守時はこの地において自害したのだった。南條左衛門尉こと南条高直、安久井入道もここで命果てた。洲崎合戦という。化粧坂を守る大将は陸奥守貞通。ここには千葉貞胤に敗北した北条貞将も参戦していた。攻めるは新田義貞本軍。葛原にて戦い、険しい切り通しによって、新田軍は攻めあぐねいていた。極楽寺坂も攻撃が激しかった。幕府軍の大将大仏貞直。攻めるは大舘宗氏。極楽寺坂は守りが固く、幕府軍は死守に成功した(幕府軍が敗北、撤退したとは『太平記』にも見られないため、鎌倉滅亡と幕府軍全滅が同じものとして書かれているか。)。
5月18日の午後2時頃、新田義貞の軍勢は戦況調査のために、攻めあぐねいていた化粧坂から極楽寺坂付近の稲村崎に移動し、浜前において浜沿いの在家を焼き払う煙を見た。鎌倉中が騒ぎ慌てふためいている様子は例えようがなかった。極楽寺坂を攻めていた大舘宗氏は極楽寺坂から稲村崎の海岸沿いによる鎌倉突破を試みたが、北条高時の御家人諏訪氏、長崎氏の決死の防衛により、大将大舘宗氏は稲瀬川にて討ち取られたのだった。極楽寺坂を守っていた大仏貞直は堪えきれず陣を敷いていた霊山山に撤退したのだった。
化粧坂、巨福呂坂、極楽寺坂の兵士、鎌倉の人々曰く、鎌倉攻めが始まった5月18日から22日まで、鬨の声、矢叫び、人馬の足音が止んだ時間は無かったという。人々に敬われ、慣れ親しまれ、栄華を築いたような政治機構は、おそらく、これまでの歴史の中でもなかなかない事であっただろう。いつかは栄楽が終わり悲哀が襲う。そんな栄枯盛衰の運命は逃れがたいことである。北条高時。元弘三年(1333)5月22日、鎌倉乱入により葛西谷(かさいがやつ)に撤退。ここにおいて、自害。享年29。北条一族も高時に従い数百人自害した。なんともしみじみとする。
ところで、新田らは堅固な鎌倉にどのようにして入ったのか。切り通しの攻略に軍勢が難渋していたところに、稲村崎の波打ち際がにわかに干潮によって、干潟が形成されていた。この干潟を見て人々は「仏神の加護ぞ」と言う。稲村崎を突破、鎌倉に乱入した新田軍を起点に三道も突破した。市街戦においては、北条貞将や大仏貞直らが討死、最期を悟った北条一族は葛西谷にある北条家の菩提寺、東勝寺にて滅亡したのである。鎌倉という場所は、南の方は海で、北東西は山で囲まれているため、嶺続きの場所に大勢の寄せ手は陣を敷いた。麓に下り、所々の家々に放った火は、どの方角であっても煙風は鎌倉の中に吹入る。残すとこなく焼き払われたその様、天命に背いた者の決まった結末である。
治承4年(1180)の平家追討より鎌倉殿の時代は始まった。それ以来、「天にせぐくまり地にぬきあしす」というように、身の置き所がない、これまでとは全く異なる世の中となった。上を尊び下を恵み、法度による制度、武術の慣習を根本としてこの国を治めた。のろしが立つ事もなく、家々は戸締りを忘れるほどの栄楽を得た。それから久しくして、その時は来たのだ。元弘3年(1333)の夏、初代北条時政の子孫700人あまりが同時に滅亡したが、これまで定めてきた『御成敗式目』などの条々は今にも残り続けている。天下を治め、武術の正道を示した法として機能していたことは非常に評価される。
18:鎌倉と足利と楠木
さてさて、この度の関東誅伐では、新田義貞が大きな功績を残したのだが、実はもう1人功労者がいる。それが後の室町幕府第2代将軍となる足利義詮こと千寿王。御年4歳である。足利尊氏は六波羅探題の攻略により鎌倉攻めに参戦しなかったため、父尊氏の名代、大将として鎌倉攻めに参戦した。新田義貞と並んで倒幕以後の有力武士となったのである。というのも、新田義貞は無官で、足利尊氏は従五位上である。そのため、信頼の多くが足利尊氏へ、そして鎌倉にいる千寿王に集まった。この千寿王は二階堂別当坊こと永福寺にいた。諸将は残らず4歳の若君を推し奉ったことは述べた通りである。誠にめでたい。「これこそ新の将軍にふさわしい。足利殿未来永劫の繁栄の吉兆だ。」と人々は言う。
時は少し戻って鎌倉攻めの最中、京都より阿波守細川和氏、源蔵人細川頼春、掃部介細川師氏の3兄弟が倒幕のため、そして千寿王を補佐するに派遣された。鎌倉に向かう道中、関東ははやくも滅亡したとの報せを聞いたが、なおも足を進めた。こうして今、鎌倉で千寿王を補佐し奉ることとなったのだが、鎌倉は連日武士同士の諍いが起こり穏やかではなかった。
和氏、頼春、師氏の3兄弟は新田義貞にこの現状を尋ねんと宿所を訪れたところ、彼は勝敗を決しようと意気込んでいたため、その旨を起草文として京都へ提出した。その間新田義貞は大人しくしていた。時は7月、程なくてして新田義貞の一族は残らず上洛した。新田義貞は、鎌倉攻めの功労者であるにもかかわらず僅か3ヶ月で鎌倉を後にしたのであった。