三善清行 平安
延喜4年(914年)に醍醐天皇に提出された政治意見書。平安末期の社会情勢と律令制の崩壊を知ることができる。
現代語訳一覧
各条文の現代語訳はこちらです!
現代語訳一覧 | ||
序文 | ||
第一箇条 | 第二箇条 | 第三箇条 |
第四箇条 | 第五箇条 | 第六箇条 |
第七箇条 | 第八箇条 | 第九箇条 |
第十箇条 | 第十一箇条 | 第十二箇条 |
当時の社会システム
律令制の終焉
そもそも、律令制の始まりはというと、所説ありますが、「なまる人にも大宝律令」こと701年大宝律令制定が本格的に制度として律令が用いられた出来事になります。
それからいつまでが律令制の時代だったかというと、「鎌倉時代になるまで」ではなく、「10世紀初めごろまで」です。西暦に変換すると900年初頭になります。
ではこの900年初頭に何が起こったかというと、902年(延喜2年)延喜の荘園整理令の発令です。発令されたは良いものの、不徹底に終わり、これが史料として残っている最後の班田となりました。これは律令体制が行き詰まりが明確となった証拠でもあります。
これを打開すべく時の天皇、醍醐天皇に奏上したのが三善清行というわけです。『意見封事十二箇条』は早急に対応すべく項目が文字通り12件箇条書きで記されています。
律令制と負名体制
日本史において大切なことの一つは社会システムが変わるターニングポイントでどのような変化が生まれたかを把握することです。律令制そのものについてはよく知られているので、ここでは律令制の次に登場した「負名体制」とどのような違いがあるかを解説します。
10世紀初頭に崩壊した律令制の次に社会体制として採用されたのは「負名体制」です。「名」つまり土地に対して税を「負」うシステムになりました。
律令制との決定的な違いは端的に表すと以下の通りです
- 律令制 :「人」 に対して課税する(主に成人男性「正丁」)
- 負名体制:「土地」に対して課税する(主に名)
こう考えると、律令制における問題「偽籍・逃亡・浮浪・私度僧」が全て人の所在に関する項目であることが分かります。後に解説しますが、負名体制における問題として出てくる受領は文字通り土地に関する単語ですね。
話を戻しましょう。
課税は「租・調・庸・雑徭」→「年貢・公事・夫役」
と土地に依存する課税対象に変わりました。注意してほしいのは、「荘園が消滅したわけではない」ということです。あくまで負名体制では、不動産である土地を広くひとまとまりとして捉え、それに課税していました。
このひとまとまりのことを「名」といいます。そして国に納税するシステムですが、これは「この土地であればこれくらいの収穫はあるだろう」という概算のもと産出されました。
言い換えれば、天候や天災によらず、一定の収穫量を要求したということです。
「名」での税の取り立て、並びに荘園の管理を任された人を受「領」といい、受領の不当な税の取り立ては一定の収穫量を要求したという部分に起因することが分かります。
これに関する史料『尾張郡司百姓等解』は別で現代語訳を行うので、受領の実際に行った行為についてはそちらをご覧ください。
では、受領は誰に税の取り立てを行ったかというと、主に荘園の有力農民に対して行いました。
有力農民のことを大「名」田堵といいます。大名田堵の中には、自力で荘園を開いた者もおり、その場合開発領主と呼ばれます。
大名田堵の中には開発領主になる者もいるというイメージでOKです。
ここまでの説明で、律令制→負名体制への転換期に起きたことの解説は終わりです。
さらに「負名体制」が発達すると、寄進系荘園や荘園公領制が誕生します。その説明はまたいずれどこかで。
数量化分析
文字通り、12の条文で書き記されている『意見封事十二箇条』。それらを分類や文字数で分析してみましょう
内容一覧
まず、そもそも何が書かれているか知る必要があります。詳しい内容は現代語訳をお読みください。一言要約してみましょう。
序文 | 律令制の現状、仏教と国家の関係 |
---|---|
第一箇条 | 干ばつ対策をして五穀豊穣を |
第二箇条 | 役人のぜいたく禁止 |
第三箇条 | 口分田の再調査を |
第四箇条 | 大学生に食料を |
第五箇条 | 舞妓の数を減らすこと |
第六箇条 | 公正な裁判のための人材確保を |
第七箇条 | 役人の給料の分配を |
第八箇条 | 小さな訴訟には対応しないように |
第九箇条 | 役の免除者の把握を |
第十箇条 | 検非違使の弩師は適正に選出を |
第十一箇条 | 僧や舎人の悪行の取り締まりを |
第十二箇条 | 港の整備を |
大きく分けると、
- 戸籍、土地の再編成[1・3・4・9]
- 腐敗(治安・政治)改善[2・5・6・7・8・10・11]
- その他[序文・12]
の2点が話題となっていることが分かります。
①戸籍、土地の再編成
先にも述べた通り、902年の延喜の荘園整理令行われていなかった戸籍や土地の再調査を求めています。税収が不安定なためです。
- 序文:859年において、人口約70人のうち、男は三人だったことが分かったのです。
- 第三条:記載されている百姓は大半が所在不明の者でした。
挙げるとキリがないので2点だけ取り上げますが、もうこれだけでも口分田の調査が杜撰であったことが分かります。
- 第九条:現在、近江国、丹波国の両国はすっかり国力が衰えています。勘籍人を過剰に許可したことが原因なのです。
勘籍人とは、役の免除対象となる者のことです。第九条では、勘籍人の乱発により税収が減ったと述べています。このように、畿内周辺国ですら律令制で管理できないほど社会システムが崩壊していました。
②腐敗(治安・政治)改善
当然、社会システムが機能していないので、治安は悪化します。政治機構すら悪化していました。
- 第六条:職員令によると、大判事2人、中判事2人、少判事2人の計6人が罪の決定権を有しています。しかし少し前から大判事1人で常に判決を下しています。
- 第十条:しかし、現在、検非違使に携わる者は、皆各国の百姓であり、贖労料を納めている者であります(検非違使としての知識がない上に、贖労により職務に当たっていない者が多いという意味)。
- 第十一条:凶暴で邪悪な者が悪僧から宿衛を任されています。
こちらも挙げるとキリがないので3点だけ取り上げますが、民が暴徒化している、殺人が平気で起きている、といった内容ではなく、治安維持に関わる側の腐敗を指摘しています。世も末ですね。特にこの治安に関しては僧が絡んできます。宗教勢力が治安悪化に加担しているというわけです。
序文において、仏教が治安悪化に結び付いたと言及している箇所があります。それも踏まえて僧の不適切な行為を陳序しているのでしょう。
文章量
文章量によってその重要度に差が生じるか調べました。上の一覧に文字数を付け足しています。
- 序文 :[1200字]
- 第一箇条 :[800字]
- 第二箇条 :[800字]
- 第三箇条 :[300字]
- 第四箇条 :[1000字]
- 第五箇条 :[300字]
- 第六箇条 :[450字]
- 第七箇条 :[250字]
- 第八箇条 :[900字]
- 第九箇条 :[700字]
- 第十箇条 :[450字]
- 第十一箇条:[700字]
- 第十二箇条:[450字]
序文を除いて特に文章量の多い条文にマーカーを引きました。
第1・2・4・8条ですね
では先ほどの分類をもう一度もってきます
- 戸籍、土地の再編成[1・3・4・9]
- 腐敗(治安・政治)改善[2・5・6・7・8・10・11]
- その他[序文・12]
特にどちらに偏っているというような傾向は見られませんね。どちらも重要だということを意味しているのかもしてません。
見やすいようにグラフ化してみました。
ピンク:①戸籍、土地の再編成[序文・1・3・4・9]
青 :②腐敗(治安・政治)改善[2・5・6・7・8・10・11]
黄色 :③その他[序文・12]
文字数でみると、腐敗(治安・政治)の文字数が多いですね。そもそも該当する項目数も多いので自然なことです。腐敗の改善をより重点的に行わなければ、戸籍や土地の再編成がままならないということでしょうか。
以上、解説でした!