坂本龍馬 江戸
明治新政府に大きな影響を与えた。新時代に必要な日本国が整えるべき体制が書かれている。
坂本龍馬のプロフィール
- 坂本家は江戸時代でいう下級武士の家
- 14歳で日野根道場に通い始め、19歳で剣術修業のために江戸へと旅立つ。この年に土佐藩士として黒船警備に駆り出されます。刀を振り回して異国民の首を取るといった攘夷少年で、大言壮語な性格が父に宛てた手紙の中で如実に表れていました。
- 千葉定吉道場に入門、24歳で「北辰一刀流長刀兵法目録」を授与され、27歳で小栗流中伝を授与されます。この年に安政の大獄が始まっていましたが、剣術修業は忘れませんでした。
- 28歳に土佐勤王党に加盟して以降龍馬は幕末の勇士として日本を駆け巡ります。龍馬の快挙は数多く知られていますが、海援隊の功績は特に大きかったといいます。長州征討の際に海援隊は高杉晋作と連携して馬関海峡で幕府軍を打ち破りました。いち個人が組織した海軍が幕府の海軍を倒すわけですから大快挙です。その後も海援隊は薩長、土佐藩に最新式の鉄砲を運搬するなど物流の中心核となり、新政府の薩長と旧幕府軍の奥羽越列藩同盟が戦った戊辰戦争では新政府軍の戦力維持に一躍買ったと言われています。
- 最期:慶応三年(1867年)11月15日に近江屋で暗殺された。この日は33歳の誕生日だったという。
主な功績
薩長同盟が船中八策に影響を与えたといわれています。
坂本龍馬の功績は3つあるといわれており、時系列順に
- 薩長同盟
- 船中八策
- 大政奉還
です。先に『船中八策』に影響を与えた薩長同盟の概要を簡単に説明します。
尊王攘夷~大政奉還までの簡単な流れ
(攘夷運動)
↓
外国との対立
↓
(攘夷失敗)
↓
薩長同盟
↓
(倒幕)
↓
船中八策
↓
大政奉還
薩長同盟(1866年3月7日)
雄藩連合による共和政治を指します。1度目の会議は坂本龍馬を仲立ちとして長州藩、薩摩藩の話し合いが失敗に終わりました(1865年5月)。
2度目の話し合いはこの年の12月に行われており、この時坂本は長州藩の桂小五郎を説得し、会合に参加させました。そして同盟が成立したのは翌月、1866年の正月で、直近の12月の会合が功を成したといえます。
長州藩は桂小五郎、薩摩藩は西郷隆盛と小松帯刀が密約を交わしました。もちろん立会人は坂本です。このことから分かるのは、実は薩長同盟とは、この4人のみぞ知る秘密の約束であったことです。
この密約の内容は6箇条でまとめられているのですが、またの機会に解説します。
元々、薩摩と長州は文久3年(1863年)の禁門の変、長州征伐が原因で両藩の間に緊張が走っていました。そのような状況の中説得を続け、成立させた坂本はまさに時代の立役者といえます。
船中八策
それでは、薩長同盟の背景を踏まえたうえで、『船中八策』を読んでみましょう。
解説で分かりやすいようにリスト化してます。当然、原文には丸数字はありません。
船中八策
慶応三年六月十五日
坂本龍馬
- 一、大政奉還を実行し、政令は朝廷から発せられるようにする事。
- 一、上院、下院を設け、両院議員が政治に賛助し、優れた意見を公の場での議論によって決定する事。
- 一、有能な公卿諸侯および国民の中で優秀な人材を政治顧問に就かせ、彼らに官職と爵位を与えることで、長く居座る有名無実の役人を排除する事。
- 一、外交政策について幅広く議論を行い、新たに至極当然な法律を立案する事。
- 一、古い法律を程よく廃止し、新たに永久的な法律を選定すること事。
- 一、海軍の軍拡を図る事。
- 一、天皇護衛専属の軍隊を置き、帝都東京の守護を行う事。
- 一、金銀の交換レートは外国のレートと均衡を保てる法を制定する事。
以上の八策は現在の世界、国内の情勢を踏まえた上での策であり、これは他の事業を捨ててでも確立させる必要がある急務の事案なのである。もし、これらの策の反対意見を押し切って数件でも実行すれば、天皇家没落の運命は挽回されるし、国力を増強させて大国と国力で並ぶことも、決して難しくないと言える。公明正大に、その大英断によって天下を一新することを願う。
解説
発案の裏側
実は、『船中八策』は坂本独自のものではありません。横井小楠から聞いたものを改良して作り上げたと言われています。
高知県立坂本龍馬記念館においても、横井小楠の『国是七条』と四つの条文が同じであると解説しています。偶然とは言えないでしょう。
『国是七条』のうち、4つのみ採用した坂本ですが、その他は何故採用しなかったかと言いますと、それら条文は、「将軍上洛と参勤交代の廃止、人質の解除」を目的としていたためだと言われています。事実、幕府の存在というのは有名無実化していました。
その代わり、「外交や法の整備、共和政治、御親兵」を追加しました。
この8つの策を分類するとしたら、
- 外交3策(④⑥⑧)
- 尊王2策(①⑦)
- 新政治体制3策(②③⑤)
の3つに分類することができましょう。
つまり、八策を全て遂行させるには、大政奉還が必須条件であり、とりわけ目を引く天皇関係と外交関係の案は江戸幕府の方針と真逆をついています。まずは外交関係から見ていきましょう。
外国との関係
坂本龍馬が外国との関わりを尊重しようとしていることが分かります。そのために必要としているのは、
A外交に用いる法の整備④⑥
B列強と対等になるための国力⑧
の二つです。
特にAに関しては、戦争ではなく、話し合いで外交問題を解決するためには、外国と真っ向から話し合いができるような合理的な法の整備が急がれたのは至当であると言えます。
この策の正当性は約30年後に見出されました。坂本龍馬と師弟関係にあった陸奥宗光が1894年、日英通商航海条約を締結し、治外法権の撤廃に成功したのです。不平等条約の一部改正はまさに坂本龍馬の意思を継いでいるといえます。
話し合いで解決しようと法の整備を提唱する坂本龍馬ですが、Bに挙げた通り、海軍の軍拡を急務の一つとして挙げています。この背景にあるのはやはり列強諸国の植民地化でしょう。
福沢諭吉も、『学問のすすめ』の中で外国の圧力、植民地化に抵抗する国力を養う必要性を説いています。坂本龍馬は異国との国力差を理解した上で薩長同盟の成立に尽力しました。
また当時は植民地化政策に表れているように、軍事力=国力の関係にありました。富国強兵はただ国力を養うだけでなく、列強諸国と対等な関係を築く手段でもあります。
言い換えれば、国力増強は不平等条約の改正にもつながったわけです。ただ、海軍をもって他国を制圧しようとの意図はここからは読み取れません。
尊王(御親兵と旧体制)
天皇を中心のとした政治は幕藩体制を真っ向から否定したもので、それに対する反発運動は必然といえます。
言い換えれば、新政府の基盤を構築するには、同時に旧体制派を抑える必要があったということです。
そのための勢力として坂本龍馬は御親兵という軍の設置を急ぎました。実際1871年に御親兵が置かれ、薩長土の三藩によって編成されました。
新政治体制
坂本龍馬は海外の政治体制から、身分に囚われない優秀な人材を政治に登用する、公選議員の採用を勧めました。
これは四民平等を基本とする身分制の改善が必要であることを暗に意味し、坂本龍馬の先を見る目、達観さが垣間見えます。
また、近代国家を創造するため、そして江戸時代の悪しき習慣を一掃するためにも、新しい法律の作成を急いだといえます。
江戸時代に行われていた参勤交代やお茶壷道中といった行事は幕府の権威を示すためだけの慣習であり、国民の益になるものではありませんでした。
このような慣習が近代化の足枷になることは坂本龍馬には目に見えていたのでしょう。
まとめ
以上のことから、坂本龍馬は新政府の大まかな方針をこの船中八策の中に全て盛り込んでいたことが分かりました。
徴兵令や四民平等、不平等条約の改正など、後世の政治方針に大きく影響を与えていたことが分かります。明治新政府は薩長同盟による倒幕勢力の誕生が起源といっても過言ではありません。それほど薩長同盟の影響は大きかったのです。
本人は明治時代の新時代を見届けることはなかったものの、明治新政府の政策は船中八策に一致しています。このような実績も、坂本龍馬が生きていれば歴史は変わった、と言われる一つの要因なのかもしれません。
文献
参考
稲雄次2010「政治家・坂本龍馬」『総合政策論集』第9巻第1号 85-94頁
磯田道史2010『龍馬史 Ryoma-shi』文藝春秋