不明 平安
この合戦に助力、勝利した源氏は東国~奥州の武士団と主従関係を強めた。これが鎌倉幕府の基盤となる。
現代語訳(序文)
序文
朝廷には文官と武官があり、互いに政治を補佐し合っていた。仏教においては、顕教と密教の2つの宗派があり、それぞれ大切に守られ、存続している。 これは先代の聖人が民を慈しんだ治世を行ったことがきっかけで、神仏が姿を現したのだといえる。
これは、神武天皇を初代天皇とし、以来56代目となる清和天皇。その御子である貞純親王の6代目の子孫、伊予守源義朝の嫡男、陸奥守源義家の話である。
源義家は人々から八幡殿と呼ばれていた。 源義家は堀川院在位であった永保三年(1083)、陸奥守として奥州に赴任した。奥六郡と称されるこの陸奥六郡(岩手・紫波・稗向・和賀・江刺・胆沢)、を所領としていた鎮守府将軍、清原真衡は富の力にかこつけて奢り高ぶるような振る舞いをしていた。祖父は清原武則、父は清原武貞、通称荒河太郎である。
一族でありながら郎党と同格に扱われていた吉彦秀武は真衡に深い恨みを抱き、遂に合戦へと及んだのだった。吉彦秀武は真衡の父、荒河太郎の兄妹である女と夫婦であり、つまり秀武、真衡親子とは近い親戚であった。
争いの余波は広く奥六郡にまで及び、ついに清原武衡、藤原家衡までもが攻められることとなった。武衡は荒河太郎の子で、武貞と兄弟である。
この争いの中で、武功を挙げてその名をしらしめんとして、把握出来ないほどの回数、大軍が激突した。これらの戦いにおいて、大将軍源義家の武威は長い歴史の中で比べても劣らないものとなった。 雪の中にいながら人を温める心は暖かい陽気を肌に含んでいるようであり、雲の上にいる雁の存在を把握するほど優れた知略は天性の才能を胸に有しているようであった。ある時は剛勇の者と臆病の者を将軍の座に就かせて策略を用いて兵を奮い立た。またある時は暴徒が落ちぶれた時、救いの手を差し出した。
そのようにすること寛治5年(1092)11月10日の夜、多くの敵は既に滅亡し、残党はほとんどが大将軍の手によって降伏した。その後、奥六郡鎮圧という旨の解状を中央に送り、これを聞いた時の天皇、第73代堀河天皇は非常に喜んだ。俗に、この出来事は『八幡殿の後三年の軍』と言われる。多くの年月が流れたが、源義家の名は不朽であろう。
源家の流れは広く、今となっても新たに生まれている。名を挙げた源家の美談は多く存在するも、源義家の武威、仁徳を仰がない者はいるだろうか。世の中の人々が知る話を、後世に伝え示そうと思う。
後漢の二十八将の功績は凌雲台という楼閣に書き残されている。 我が国、朝廷においては『賢聖障子』と呼ばれる、32人の賢人、聖人の肖像が紫宸殿に描かれている。私は今、これに倣って、源義家公を始めとする武功を立てた武将らの画を描かせているところなのだ。この画の構図や意味などは、延暦寺東塔南谷における合議にて終わりとする。
狂言や意味の無い議論によって画を描き始めたのではない。児童や幼児が学問に励む最中に時々この画を見て、長く感じる日や寂しい夜を慰めて欲しい。また、故郷を偲ぶことの他、この画をもとに遊びに興じたり、風や月を眺めては歌を詠んだりして欲しい。 画の精巧さは麗しく、絵であるはずの花が常に春に留まっているかのようである。
詞書の筆遣いは、金石文に刻まれた銘文に恥じないほどの達筆である。あれもこれも後世の利益になるのであり、年少者も老人も心動かされるはずであろう。
以上、時は貞和3年(1344)、わたくし法印權大僧都玄慧は、比叡山延暦寺一谷の衆の命に従い、この話の概要の短い序文として記した次第である。
上巻
清原真衡という人
永保年間(1081~1084)のころ、奥六郡に清原真衡という者がいた。清原武貞、通称荒河太郎の子であり、鎮守府将軍清原武則の孫である。真衡の一族はもともと出羽国にある山北という所の住人であった。康平年間(1058~1065)に起きた前九年の役(1051~1062)で源頼義が安倍貞任、宗任兄弟を討ち取ったことがあったのだが、この時、清原武則は一万人強の軍勢を連れて源頼義に加勢し、安倍貞任、宗任兄弟討伐に貢献した。
前九年の役以前は、安倍貞任、宗任ら先祖が代々奥六郡の主であったが、このことによって清原武則の子孫が代々奥六郡の主となったのである。清原真衡の威勢は父武貞、祖父武則よりも優れており、国中を見渡しても真衡に並ぶものはいなかった。真衡は心麗しく、道理に合わない行いをせず、勅命を重く承り、朝廷の威厳を高めた。
このような人となりによって国内は治安が良く、兵は穏やかであった。しかしながら、真衡には子がいなかったため、海道小太郎という者を養子に迎え世継ぎとした。清原成衡と名乗る。成衡は年が若く妻もいなかったため、真衡は成衡の妻を求めた。国内の妻となれるような出自の者は皆家来となっていたため、隣国に妻を求めた。すると、常陸国に多気権守宗基こと多気致幹(たけむねもと)という時勢ある者を見つけた。
多気致幹の孫は、源頼義の子である。昔、源頼義が安倍貞任討伐のために陸奥国に下った際に会った女と一夜を過ごし、生まれた子がこの娘であった。祖父の多気致幹はこの娘を非常に大切に育てたのであった。真衡はこの娘を迎え、成衡の妻とした。
新しい嫁を饗応しようとして国内どころか常陸国の輩までも事に当たらせた。陸奥国には『地火炉』という風習があり、ありとあらゆる物を集めるのみならず、金銀や絹布、馬や鞍までも清原家に持ち運ませたのであった。
吉彦秀武の不満
出羽国の住人に吉彦秀武という者がいた。この者は清原武則の娘(名前不明)の婿である。昔、源頼義が安倍貞任を攻めた時のことである。武則一族がふるって出羽国にやって来て、栗原郡の営岡(たむろがおか)を拠点とし、ここで源頼義軍と合流、陣を整えた。この時吉彦秀武は第三陣の大将に任ぜられた。そんな経歴を持つ人物である。
真衡は先に述べた通り父や祖父よりも威勢が優れていたため、一族郎党の多くが家来となっていた。吉彦秀武も同じく身内としてこの饗応に呼ばれ、すなわち家来となったのであった。
様々な催しや応対をしていた時の出来事である。秀武は、朱色の盤に金をうずたかく積み上げ、これを自分の目上の位置にまで持ち上げ、庭に出ては跪く体勢となり、持っていた盤を頭の上に捧げるといった余興をした。この時、真衡は、真衡に仕える『五そうのきみ』という奈良法師と囲碁に熱中しており、秀武の方に目を向けなかった。秀武は老人である。疲れて苦しくり、この状況を見て思ったのだった。
『私は清原一族の者になったとはいえ家来である。場の流れによって主従の振る舞いをすることとなった。こうなった以上、と思い、この老体を奮い立たせて体をかがめ、庭で跪いていたのだが、実衡殿は長い時間こちらを見もしないではないか、情けない。心中穏やかでは無いぞ、腹立たしい。』
秀武は金を庭に投げ散らして、急に饗応の場を立ち去り門の外に出た。持ってきた多くの食料や酒は皆従者に与え、長櫃などは門の前に捨てた。そして、着背長(=鎧)を着ては、連れてきた郎党らにも皆武具を着用させて出羽国へ逃げ帰ったのだった。
後三年の役の原因
真衡は囲碁を打ち終えて退出した秀武を訪れると、そこで「こうこうあって本国に帰った。」というのを聞き、大いに怒って諸郡の兵を招集して秀武を攻めようとした。
兵は雲霞の如く集まり、大軍となった。近来穏やかであった奥六郡がたちまちに騒然となった。真衡は既に出羽国へ向かっていた。これを知って秀武は思った。『我が軍勢は真衡の軍勢に全く及ばない。攻め落とされるまで長くは持ちこたえないだろう。』と。そう思いながら策をめぐらしていた。陸奥国に藤原清衡、家衡兄弟がいる。
清衡は時勢ある権大夫、藤原経清の子である。家衡は、藤原経清が安倍貞任との合戦の最中に討たれた後、清原武則の長男である清原武貞が藤原経清の妻と逢瀬を遂げて生まれた子である。つまり、清衡は藤原経清、家衡は清原武貞を父として、同じ母を持つ、異父兄弟であった。
秀武はこの2人のもとへ使者を送り、こう告げた。
『真衡は一族を家来のように扱っている。これに不満を覚えていないことはないだろう。思いがけない出来事がきっかけで、真衡は奮って私を攻めようとしており、既に真衡は出立している。真衡が国もとを空けた隙に真衡の妻子を拉致し、館を焼き払っていただけないか。そうすれば真衡の威勢も傾くだろう。もうすぐ生まれる隙は天が与えたものだ。妻子を人質に取り、なおかつ館を焼き払うことに成功したすれば、雪の中に埋もれた我が首を真衡に取られたとしても微塵も悔いは無い。』
これを聞いた清衡、家衡兄弟は喜んで兵を集め、真衡の館を襲撃した。また、真衡の館まての道中に位置する伊沢郡白鳥村の家四百軒を焼き払った。真衡はこれを聞いて狼狽え、進軍を中止して国もとへ引き返した。まずは清衡、家衡と戦おうと馳せた。
これを聞いた清衡、家衡は「あの大軍と交戦すべきではない。」と判断し、拠点へと引き返したのだった。真衡は吉彦秀武とも清衡家衡とも戦えずいよいよ怒り心頭。更に兵を集め、襲撃された本拠地も強固なものとし、いよいよ再び秀武を攻めようとしたのだが、それが出来ない状況となった。
源義家の赴任
永保3年(1083)の秋、源義家が陸奥守となり、奥六郡まで赴任したのだ。真衡はまず戦いのことは忘れ、新たに赴任してきた国司に対して三日間、饗応の限りを尽くした。これを『三日厨』という。真衡は日毎に馬50頭を引き連れた。他にも、金や羽、アザラシの皮や絹布など、上質な品々を献上すること数知らず。
ようやく国司の饗応を終えた真衡は奥六郡に帰り、本望を遂げんがために後回しにしていた秀武攻めを再会しようとした。軍を二手に分け、一方は館の警固に、他方はかつてのように出羽国に出兵した。
真衡が出羽国に来る旨を聞いた清衡と家衡は、かつてと同じように進軍し、真衡の館を攻めようとした。この時、国司である源義家の郎党にの中に、三河国出身の兵頭大夫正経、伴次郎傔仗助兼という者がいた。
この二人は婿舅の関係で、奥六郡の検問を担当している。この検問所が真衡の館の近くにあったため、真衡の妻が彼らのもとに使いを遣ってこう告げた。
「真衡が秀武討伐に向かっている間に、清衡、家衡兄弟は再びここを襲撃してくるかもしれません。そうなれば我々が防戦することとなります。しかし、恐れることはありません。兵は多くいるからです。私は真衡の妻ですのでこの戦の大将となりましょう。女ゆえ大将の器にはございませんが、あなた方のもとへ来て、大将として戦況を国司殿に申し上げます。」と。
正経と助兼の二人はこれを聞いてすぐに真衡の館へ向かったが、既に清衡、家衡の軍勢が到着しており、交戦中であった。
(補足)
この後、清原武衡が家衡のもとにやってくる話に移るのですが、その間に重要な出来事が抜けているため、補足します。これがないと、以降の戦況が意味不明になります。
真衡の屋敷を襲撃した清衡と家衡。真衡の妻が応戦している最中、源義家が真衡方として戦闘に介入します。これによって清衡、家衡は源義家に降伏しますが、吉彦秀武のもとへ進軍していた真衡が急死、奥六郡の領主が失われたことによって、清衡、家衡の二人は、敗者ではありますが許されました。
その後、源義家の裁定によって、奥六郡を二人がそれぞれ三郡ずつ分割して統治することに決まったのですが、家衡はこの裁定に不満を抱いたがために清衡と対立。家衡は、清衡の館を襲撃して清衡の妻子を殺害するという暴挙に出ました。
家衡攻めを決めた清衡は義家に応援を要請します。清衡は妻子を奪われたこと、源義家は国司である自分の決定を無為にされたことに怒りを示し、共に家衡が籠る沼柵を攻めました。しかし家衡は、清衡義家軍を打ち破ってしまったのです。この戦ぶりを見て、清原武衡が家衡のもとに参上しました。
というところから本文に戻ります。
武衡参戦
家衡の父である武貞の兄弟、清原武衡は、家衡兄弟が国司殿を追い返したと聞いて陸奥国より軍勢を引き連れて出羽国を越えて家衡のもとへ参上した。
「世継ぎのいない独り身でありながら戦の前線に立ち、真衡の軍勢を一日でも追い返したとは。その名をあげたことはお主一人の高名ではない。この武衡の面目を立ててくれたことでもある。国司、源義家殿といえば、かつて世に名を知らしめた源平のことかと世の人は認識しているだろう。そのような名家の武将を追い返したのだ。何も申し上げることはない。あっぱれである。これより我はお主と心を同じとし、死ぬまでお供しようぞ。」
と言った。
これを聞いた家衡、喜ぶことこの上ない。兵共とも勇み喜んだ。武衡が言う。
「金沢柵というところがあるのだが、この沼柵よりも優れた城である。」
二人は共に沼柵を放棄し、金沢の柵に拠点を移したのだった。
義光参戦
源義家将軍の弟、兵衛尉源義光が思いがけず義家の陣に参上した。将軍に向かって言う。
「ぼんやりとですが、劣勢であるとの戦況を聞きました。院には『義家は暴徒に攻められて危ないと聞きました。暇をいただかないでしょうか。陸奥に下り、安否を確かめたいのです。』と申し上げ、暇をいただきました。この時、お役目から外れるため、兵衛尉の官職を辞し、こうして参上した次第であります。」
義家はこれを聞いて喜び、涙を抑えて、「今日、お前が馳せ参じてくれたことは、前九年の役で命を落とした父、頼義入道が生き返ってこの場に現れたかのように思われた。お前はもう我が軍の副将軍である。武衡、家衡の首は簡単に取れようぞ。」と言った。
先鋒は既に武衡、家衡の軍と交戦している。城の中では叫び声が響き、降る矢は雨のようであった。激戦故に、傷を負う兵は非常に多かった。
鎌倉権五郎景正の猛者ぶり
相模国の住人に、鎌倉権五郎景正という者がいた。先祖代々猛者の一族として知られている。この景正は齢16にして大軍相手に前線で戦っていた。命を捨てる覚悟で戦っている最中、征矢(そや)が彼の右目を貫いたのだが、その矢は首を貫通し、兜の鉢付の板にまで到達していた。傷を負っていながらも、景正はその矢をへし折り、敵に射返すという猛者ぶりを見せつけていたた。さて、傷を負って戦線離脱した景正。兜を脱いでは「ああ、傷を負った。」と言って仰け反って倒れ込んだのだった。
景正と同じく相模国出身の輩がもう一人いた。三浦平太郎為次といい、この者も名高い猛者であった。景正が倒れ込んだ後、貫かれた矢を抜き取ろうと、景正の顔を踏みながら引っ張ったのだが、この時景正は仰向けのまま刀を抜いて、為次の草摺りを握っては為次を殺そうとした。
為次は驚いた。「これはどういうことだ。なぜこのようなことをする。」そう聞くと景正は言った。
「矢にあたって死ぬのは、武士の本望だ。だがな。生きていながら顔を踏まれるのは武士としてきまりが悪い。踏まれた以上、貴様を仇として討ち取り、俺と共に死のうと思ったのだよ。」
武士としての誇りの高さ。為次は舌を巻いて何も言えなかった。とはいえ、景正に死なれるのも自分が死ぬのも御免である。為次は景正の膝を屈めるかたちで顔を抑えさせて、矢を抜いたのであった。多くの人がこれを見聞きし、
「景正のような猛者はぶりに、右に出るものはいない。」と語るのであった。
薄金
源義家の軍勢は力を尽くして金沢柵を攻めたが、なかなか落城しなかった。金沢柵は岸かと思われるような崖に壁を立てたような堅牢ぶりであった。金沢柵の兵は、遠くにいる敵に対しては矢を放ち、近くにいる敵には石弓を放つといった戦術で防衛していた。死んだものは数知らず。
伴次郎傔杖助兼という者がいた。強さに際限の無い猛者で、常に前線に立っていた。義家将軍はこの武功を讃え、『薄金』という鎧(=甲)を助兼に着用させた。
軍勢が崖近くに攻めて来た時、助兼は飛んできた石弓を避けようとした。既に中ったと思われる距離で、頭を振って屈むと兜に命中し、兜が頭から離れた。
この時、まとめていた髪(本鳥)が切れてしまい、兜は完全に撃ち落とさたのだった。こうして『薄金』の兜の部分は失われた。助兼は深く悲しんだという。
源義家の出兵
国司源義家は、清原武衡が家衡に加勢したと聞いていよいよ怒り心頭となった。奥六郡の政務を中止し、ひたすら軍を整えた。清原清衡はもとより、吉彦秀武も加勢した。
春と夏は一心に出陣し、秋の9月には数万の軍勢を引き連れて金沢柵に向かった。進軍を開始した日、大三大夫光任こと大宅光房は齢八十であったため、同行せずに国府に留まった。
既に腰が折れ曲がっている老体である。源義家の馬の轡にまとわりつき、涙をのんで「歳をとるということはなんとも残念なことか。こうして生きている今、将軍の鎮圧事業も見ることが出来ないとは。」と語った。これを聞いた者は皆、しみじみと感じて涙を流すのであった。
雁と兵法
さて、金沢柵に着いた源義家。軍勢は雲霞のごとし。野山を覆うほどであった。義家一行の斜め上の雲上を雁の群れが飛んでいたのだが、すぐにその飛ぶ配置が崩れ、四方に散ってしまった。
源義家は遥か遠くで起きているこの様を見て怪しみ、そしてはっと気づいた。兵たちを伏せさせると、思った通り、草むらの中から三十騎ばかりの伏兵がいたのだった。急襲のために配置していたのだろう。源義家の兵がこれを射て、被害が出る前に鎮圧した。
昨年の話をしよう。義家が宇治殿こと藤原頼通のもとに参上し、安倍貞任を攻めることなどを申し上げたところ、大江匡房(有職故実書である『江家次第』を著したことで有名)がこれを聞いて、「武士としての器量は十分。だが、軍法を知らないようだな。」と独り言を言った。源義家の家来らがこれを聞いて、『我が主ほどの武士に対してそのような不快なことを言うとは、とんだ老人だな。』と思いつつ、このことを義家に話した。すると義家は「そんなこともあるさ。」と言って、大江匡房がいる所にわざわざ会釈しに行ったのだった。
時は戻して今。義家将軍はこの戦の後に大江匡房宛てにこのような文を送った。『義家にございます。あの時、あなたに和歌を教えていただかなかったら、武衡の伏兵に敗れていたでしょう。感性を育てたおかげで救われました。』
これが、「雁は野に伏す兵の面を破る」ということわざの由来である。
剛の座、臆の座
さて、金沢柵の攻防戦。源義家は数日間柵を攻めたが、いまだ落城させることが出来なかった。将軍は兵を鼓舞しようと時々『剛臆の座』というのを行った。側近一座の中に『剛の座』、『臆の座』というのを設置し、剛勇の者は『剛の座』に、臆病の者は『臆の座』に据えさせたのである。
兵は皆『臆の座』には選ばれたくないと思い、その身を奮い立たせて戦った。すると、日に日に『剛の座』に就く者が増えた。腰瀧口季方こと藤原季方は一度も『臆の座』に就くことはなかった。
義家将軍がこのことを褒め讃えない日はなかった。藤原季方は、源義家の弟、源義光に仕える郎党である。義家将軍の郎党はというと、名を馳せる武士の中に、特に『臆の座』に就く者が五人いた。
これを詩歌にしてみたので聞いていたただきたい。
♪鏑の音を、聞くまいと、耳をも塞ぐ、剛の者。
紀七、高七、宮藤王。腰瀧口に末四郎。
末四郎というのは、末割四惟弘のことである。
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