「誰が夜更けに参詣などなさるものか。」
そう思われないかと怪しくも恐ろしく思い、親子は顔を見合わせて息を殺し、声のする方を見守っていると、前駆けの若侍が橋板を荒々しく踏みながらここへ来た。
驚いてとっさに堂の右の方に潜み隠れたが、武士はすぐに見つけて、
「何者だ。殿下がお通りになる。はやく下りろ。」
と言うので、慌ただしく簀子から下りて、土に伏してうずくまった。ほどなくして多くの足音が聞こえてきて、その中でも沓音が高く響いていた足音があった。見ると、烏帽子や直衣を纏った貴人であった。貴人が堂に上ると、従者の武士4、5人ほどが左右に座した。その貴人は人々に向かって言う。
「誰々はなぜ来ない」
と。そう仰せになると、武士らは
「すぐに参上することでしょう。」
と申し上げた。
また別の一群の足音がした。威厳のある武士や頭を丸めた入道などが入り交じっていた。彼らは礼をして堂に昇った。貴人はたった今来た武士に向かって
「常陸はどうして遅参したのか。」
と尋ねると、その武士は答えた。
「白江と熊谷の2人が貴公に大御酒を勧め奉る、としっかり準備をしておりまして、『それがしも新鮮な物を一つ差し上げよう』と考えておりましたところ、先の従者に遅れてしまいました。」
と。そして早く酒や肴を並べて勧めた。
「万作、酌みせよ。」
と命じたので、畏まって、美貌の若い武士が膝行で近寄って瓶子(へいし)を捧げた。あちらこちらで杯を巡らされて、たいへん盛り上がっているようであった。
貴人が言った。
「しばらく紹巴の説話を聞いていないな。おーい、法師を召せ。」
と。呼び継ぎ(「○○やーい」のような他者の呼び方)のように仰せになっていた。すると、自分がうずくまっていた所の背後から、体は大きく、顔はのっぺりとしていたが目や鼻がはっきりとしている法師が、僧衣を整えて末座に参上した。貴人が古い話についてあれこれ問うたり語ったりすると、法師は詳しく答え申し上げた。貴人はこれに非常に感心し、
「この者に褒美をとらせよ。」
と仰せになった。
一人の武士が法師に問う。
「この山は大徳(弘法大師)がお開きになった山で、土も石も草も木も、霊の宿っていないものはない聞いている。それにも関わらず、玉川の流れには毒があり、人が飲むと死ぬというので、弘法大師はこう詠んだと聞き伝えられている。
わすれても 汲みやしつらん 旅人の
高野の奥の 玉川のみづ
この水に毒があることを忘れていたとしても旅人らは汲んだだろうか。高野山の奥の玉川の水を。
旅人が汲む=心の浄化を求めて高野山を訪れるのは信仰心厚いが故でしょう。では、毒があったら?毒の有無にかかわらずそれと向き合うのでしょうか。
霊魂を教導せんとする大徳はともかく、以来、誰もこの毒のある川の流れを涸らさなかったのは何故だ。腑に落ちない。このことを足下(そっか。目下の者への敬称表現)はどう思われるか。」
と。法師が笑みを含んで言う。この歌は『風雅集(風雅和歌集)』に選出されたものでもあります。その端詞(はしことば。情景の説明など和歌の前に記されている)には、『高野の奥院へまいる道に玉川と云河の水上に毒虫のおほかりけれは此流をのむましきよしをしめしをきて後よみ侍ける(高野の奥の院への参道に、玉川という河があった。水上に毒虫が多くいたので、この川の水を飲んではならない理由を示した後に詠んだ歌)』と断りが入れてありますので、貴殿が覚えていらっしゃる通りでございます。とはいえ、そのお疑いも間違ってはいません。弘法大師は神通自在(超自然的な能力(神通)を自由自在に使いこなせる境地)に至っておりましたので、天下の人は、隠神(神通で現れる神)を使役して道なき道を拓いたことや、土を穿つよりも易しく巌を削ったこと、大蛇を鎮めたり化鳥を奉仕させたりしたことなどの功徳を仰ぎ奉っております。これを思えば、この歌の端詞は正しくないでしょうな。もともと、この玉河という川は諸国にあって、どこの国の玉川を詠んだ歌もその流れの清いことを誉めていますから、この玉川も毒のある流れではないといえましょう。弘法大師は『ここに詣でる人は、これほど名に負う河がこの山にあるのを覚えていなくても、この清い流れを愛でて手に掬っただろうな。』という意でお詠みになったのではないでしょうか。後世の人が「毒がある」と誤認したが故に、この端詞が作られたものと思われます。
またさらに深く疑えば、この歌の調子は京の都の初め(平安京遷都初期=9世紀初頭)の言葉遣いでもありません。そもそも、この国の古い言葉では、玉蔓や玉簾、珠衣といった言葉の類は、形を褒め、清らかさを讃えるものとなっています。そのため、清水も、玉水や玉の井、玉河と表現して褒めるべきなのです。毒のある流れにどうして、『玉』という語を冠するでしょうか。熱心に仏を尊ぶ人でも、和歌の意味に細妙(詳しいこと)でない人であれば、この程度の誤りはいくらもしてしまうものです。貴殿は、歌人でもないのに聞き伝えるこの歌の意味をお疑いになった。それは和歌の道の心があるためでしょうね。」
そう言って紹巴はたいへん感じ入った。貴人をはじめ、その他人々もこの道理を頻りに感心した。お堂の後ろの方、
「仏法。仏法。」
と鳴く声が近く聞こえるので、貴人は杯を掲げて
「あの鳥は決して鳴かないというのに、今宵の酒宴をめでたいものとしてくれた。紹巴よ、どう思う。」
と仰せになった。紹巴は畏まって、
「某の短句は君のお耳には古臭いものであったでしょう。今ここに旅人がおります。夜を過ごしておった者ですが、今の世の俳諧風を詠んでおります。君には新鮮に聞こえましょうから、ぜひ召してその歌をお聞きくだされ。」
と言うと、
「その者を召せ。」
と仰せになった。若い侍が夢然の方に向かってきて、
「お召しだ。近くまで参れ。」
と言うので、夢か現実かも分からず、夢然はその恐ろしさのままに御前へ這い出た。
紹巴法師は夢然に向かって、
「先ほど詠んでいた歌を君に申し上げよ。」
と言う。夢然は恐る恐る、
「どのような歌を口にしたのか、少しも覚えておりませぬのです。どうかお許し下さい。」
と言った。紹巴は重ねて、
「『秘密の山』が云々と言わなかったか。殿下のお尋ねだ、急ぎ申し上げよ。」
と言う。
夢然はいよいよ恐れて、
「貴殿が殿下と仰い侍っていますが、それはいったい誰なのですか。このような深山に夜宴を催しなさるのが、更に疑わしく思われます。」
と言う。紹巴法師は答える。
「殿下と申し奉るのは、関白秀次公(豊臣秀次)である。その他方々は、
木村常陸介(木村重成)、
雀部淡路(ささべあわじ。雀部重政)、
白江備後(詳細不明)、
熊谷大膳(熊谷信直)、
粟野杢(あわのもく。粟野秀用。あわのひでもち)、
日比野下野(詳細不明)、
山口少雲(詳細不明)、
丸毛不心(丸毛兼利。まるもかねとし)、
隆西入道(詳細不明)、
山本主殿(山本正信)、
山田三十郎(詳細不明)、
不破万作(詳細不明)、
そう語る私は里村紹巴法橋(さとむらじょうはほっきょう。里村紹巴。茶人。)である。
お前たちは不思議なことにお目見得仕ったのだ。さあ、先ほどの詞を急ぎ申し上げよ。」
夢然は、頭に髪があったら髪が太くなるほどに凄み、肝も魂も虚しくなってしまいそうな心地がした。そして、震え震え、頭陀袋(ずだぶくろ。主に托鉢を入れる袋として用いられた)からきれいな紙を取り出して、しどろもどろに筆を書きつけて差し出した。山本主殿が手に取って、高く吟じ上げた。
鳥の音も 秘密の山の 茂みかな
鳥の鳴き声も、誰にも知られない山の茂みで聞こえてくるよ。
秀次公はこれをお聞きになり、
「巧みな上の句を詠んだな。誰かこの下の句を詠め。」
と仰せになると、山田三十郎が座を進み、
「某が詠みましょう。」
と言ってしばし首を傾けてこう詠んだ。
芥子(けし)たき明す みじか夜の牀(とこ)
芥子(けし)を焚いて明るくしながら夜を明かすよ、みじか夜の寝床で。
この和歌は里村紹巴の作品の一つです。
「いかがでしょうか。」
と紹巴に見せる。
「良く詠まれました。」
と言って山田三十郎秀は次公の御前に差し出した。それをご覧になった秀次公は、
「片羽にもあらぬわ!(中途半端なものではないわ=優れているわ)」
と興じられて、また杯を掲げて場を廻った。
雀部淡路という人がにわかに顔色を変えて、
「もう修羅に向かう時でございます。阿修羅どもがお迎えに参上すると聞いております。お立ち下さい。」
と言うと、一座の人々は一瞬で顔に血を注いだようになり、
「いざ、石田(石田三成)や増田(増田長盛)の仲間たちに今夜も泡を吹かせてくれようぞ!」
と勇んで立ち騒いだ。秀次公は木村常陸介に向かい、
「関係のない者らに我が姿を見せてしまった。その2人も修羅に連れて行け。」
と仰せになった。老臣の方々がそれを遮って、
「まだ命ある者たちです。あの悪行をなさってはなりません。」
と声を揃えて言うが、その言葉も人の姿も、遠く雲井に行っているようであった。
親子は気を失ってしばし死んだようになっていたが、東雲の明けゆく空に朝露の冷たさを感じて気を取り戻した。しかし、いまだ開き直ることができないほどの恐ろしさを感じ、弘法大師の名を忙しく唱えながら、ようやく日の出を迎えると、それを見て急いで山を下り、京に帰って薬やはり治療で保養をした。
この話は、ある日、夢然は三条大橋を過ぎた時に、悪逆塚(豊臣秀次とその一族の塚。秀吉によって秀次はあらぬ謀反の疑いをかけられ、側室や子女が三条河原で処刑された)のことを思い出し、かの寺(瑞泉寺。秀次を祀った寺。三条大橋のすぐ傍にある)を眺めながら、
「白昼に思い返しても恐ろしかったと思うよ。」
と、京の人に語ったのをそのまま記したものである。
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